戦い終わり、小野の夏は終わった。
(甲子園には行けなかったが、俺としては悔いはない)野球生活も終わりさあ今度は就職活
動だ!と心を切り替え、家路に向かった。
家の玄関を開けた直後、「準優勝おめでとう!!」の歓声が部屋に響いた。
家族をはじめ松本と長谷川も小野の帰還を待っていたのだ。そして家族や友人が小野の
今までの活躍を褒め称えてくれ、最高のもてなしを受けた。沢山の料理と懐かしい友人の話
で、楽しい時間をすごした。久しぶりに3人とじっくり話もできた。やはり友人はいつまでも大
切なものだなと痛感させられた。長谷川は会社務めをしながら趣味でバンド活動をしていて、
近々レコード会社に売り込みをしようという所まできている。松本は駅勤務になり、切符の発
売や線路のポイント交換の業務をしているそうだ。
そう聞いていると小野は恥ずかしくなった。野球に明け暮れていて、肝心の就職活動もまだ
何も行っていない小野。何となく他の二人に遅れを取っているなと感じ始めた。
翌年の春。小野も晴れて高校を卒業し、昨年の暮れに何とか内定を受けた長野市内の
建設会社に入社した。社長が野球好きで、高校野球の長野県予選準優勝の実績も考慮
されたらしい。その会社は野球部があり県の実業団大会でそこそこの成績を収めている。
会社側は、小野が入社すれば野球部の戦力が上がるとして採用したみたいだ。
小野は再び野球ができる喜びと、社長から幾らかでもよく思われているという自信から、
会社でも成績を少しずつ伸ばしていった。
その年の夏、長谷川が一大決心をしたのであった。小さい時からの憧れで目標としてい
た【歌手デビュー】の夢を掴む所まで辿り着いたのであった。
きっかけは長谷川が愛読している芸能雑誌の広告だった。それは芸能プロダクションの
広告で、ロックグループ新規結成のためにメンバーをオーディションで選定するとの事。
たとえグループの中の一人でも芸能界デビューできる。長年の夢が叶うと思い、一念発起
して応募した。
一ヵ月後長谷川の元へ手紙が届いた。芸能プロからで、めでたく一次審査突破した為、今
度の日曜日に行われる最終審査に来てほしいとの事。
長谷川は(夢がまた一歩近づいた)と喜び、一人ささやかに祝宴(といっても近くの食堂で
とんかつを食べたのだが)を開いた。
そして運命の日曜日、長谷川は銀座にある芸能プロに赴き、最終審査を受けた。自慢の
ギターで指定された曲を自信たっぷりに歌い終え、簡単な質問に答えた。
監督員たちも長谷川の演奏と応対に好感的だった。
(全ての事はやったつもりだ)と思い、試験会場を後にした。
数日後、長谷川の元に手紙が届いた。
芸能プロからで中身はなんと、【オーディション合格】と書かれていた一枚の用紙と、十数
枚の書類だった。
「ついに夢が叶ったんだ!!」長谷川は涙を流した。
早速友人に「ついに念願のロック歌手としてデビューできる」と手紙を書いた。
届いた書類の中の【芸能界デビューの心構え】と共に添付されていた、【契約前にすべき事】
をクリアするため、両親を必死で説得し、会社も退社した。
ちなみにそこには【スキャンダルを防ぐため恋人や愛人とは別れよ】と書いてあったが、独
身の長谷川にとっては無縁だった。
そして芸能プロに正式契約して、ついに長谷川は新規グループ【キャロライン】のギター担当
として華やかにデビューしたのであった。
結成後初のライブには、はるばる長野から小野と松本も祝いに駆けつけてきた。
ライブ後、2人に再会し、「すっかり有名人になっちゃったじゃない!」「夢がか叶っておめで
とう!」「レコード必ず買うから!」の声援が送られた。
長谷川もこの時ばかりは幼なじみの顔に戻り、「これからも応援宜しく。二人もがんばれよ」
と言った。
キャロラインも結成当初は幅広い層に支持を得ていたが、音楽業界の主流がニューミュージ
ックに移行するにつれ、人気も衰えてきた。
2年後の昭和50年に、グループのリーダーが婦女暴行事件を起こし、芸能プロが責任を取り、
グループは解散、レコードもすべて廃盤するという処分を行った。
解散後も長谷川は運良く同じ芸能プロに留まる事ができたが、その後はソロ歌手に転向して
フォーク風の歌を歌っていたが、人気がなく、半年後に芸能プロダクションから解雇された。
小野や松本がその事実を知ったのはその半年後だった。
昭和54年。3人は東京・新宿の居酒屋で再会した。もう25歳になっていた。25歳にして初め
て挫折を味わった長谷川を励ます為に集まった。身なりこそはしっかりしてハンサムな顔つき
の長谷川がこの日ばかりは暗くやや神妙な顔つきで入店してきた。
事情を前もって聞いていた2人は長谷川に、
「今までの事はいい思い出として心に残しまた新たな道を築けばいい」と諭した。
長谷川の目には10年経ちすっかり立派になった二人が映っている。しかも苦労して今の地位
に就いているという自信すらも読み取れる。
小野は長野の建設会社の現場主任となり、県内各地のダム工事の監督に携わっている。
松本は運転手試験に落ちたが、車掌業務をしている。
感心の眼差しで見ている長谷川に対し、小野は、「俺だって毎日上司や関係機関から押し
付けられて大変なんだよ」と愚痴をこぼした。
松本も、「最近会社の合理化とかで駅の業務廃止や人員削減が始まっている。俺だってい
つ首になるか分からないよ」と言った。
「長谷川なら芸があるからすぐに仕事が見つかるから安心しなよ」と励まされた。
そして、「みんなも頑張れよ」と励ました。
今日は何だか励まし会みたいになってしまった。酒の量も通常より多くなっていった……
その年の夏、何かが吹っ切れたかのように長谷川は一念発起して、芸能関係とは程遠い
中堅の電気製品製造会社に就職した。まだまだ25歳だし、ある程度顔が広かったので何と
か就職ができたのであった。もっともこれからはごく普通社会人であるので派手な生活では
ないし金回りも悪くなる。けれど長谷川にとっては幸せであった。
ある程度収入は減ってもここでがんばれば生活は保障されるし、以前の歌手生活では突
然解雇という事態もあったが、ここで仕事を頑張れば特に生活の心配をしなくてもいいし。
まあ、今までの歌手人生は「ひとつの思い出」として心に留めておこうと決意したのだった。
昭和56年。日本は2度の石油危機を乗り越え、その反省から始まった省エネルギー技術の
進歩とともに、新たな技術革新の波が押し寄せ始めていた。
松本が勤務している私鉄会社も機械化が進み、手始めとして主な駅に自動券売機が導入さ
れた。乗客に対して便利になる一方で、鉄道会社の人員を確実に減らす要因となった。
ご多分にも漏れず松本も機械化の影響を受け私鉄を任意退職した。特別に通常の3割増し
の退職金が付いたからだが、完全に会社側の人員減らしの口車に乗せられた形だった。松
本にとって大きな挫折であった。予期せぬ退職喚起運動と上司からの露骨な退職そそのか
し……松本は毎日のいじめに耐え切れなかったのであった。
事実を知った友人が駆けつけてきて、今までの働きをねぎらい、励まされたおかげでいくらか
気持ちが和らいだ。
松本も初めて自分が慰められる立場になって、遅ればせながら(俺たちの友情は不滅だ)と
痛感させられたのであった。
その甲斐あってか、松本も数ヵ月後、岐阜県に拠点を持つ運送会社に就職が決まった。親元
を離れ営業所のある岐阜県多治見市に行くのは躊躇ったが、自分の生活維持と自己発見の為
他県に行くのも悪い事ではないと思った。それに多治見ならば、中央本線で一本で長野に帰れる
し、友人も応援してくれるし。そう思うと苦ではなくなってきたのであった。
長野駅。小野と長谷川が松本の再就職&転出の祝いに来てくれた。
「多治見に行っても頑張れよ!」「たまには電話してくれよ!」
声援と励ましを受けた松本は目から涙がこぼれた。
(ああ、俺はこんなにいい友人を持って幸せだな……)と思い、多治見での新生活に期待を新
たにするのであった。そして松本は二人から餞別品を戴き、握手を交わすと名古屋行きの特急
電車に乗り込んだ。
(甲子園には行けなかったが、俺としては悔いはない)野球生活も終わりさあ今度は就職活
動だ!と心を切り替え、家路に向かった。
家の玄関を開けた直後、「準優勝おめでとう!!」の歓声が部屋に響いた。
家族をはじめ松本と長谷川も小野の帰還を待っていたのだ。そして家族や友人が小野の
今までの活躍を褒め称えてくれ、最高のもてなしを受けた。沢山の料理と懐かしい友人の話
で、楽しい時間をすごした。久しぶりに3人とじっくり話もできた。やはり友人はいつまでも大
切なものだなと痛感させられた。長谷川は会社務めをしながら趣味でバンド活動をしていて、
近々レコード会社に売り込みをしようという所まできている。松本は駅勤務になり、切符の発
売や線路のポイント交換の業務をしているそうだ。
そう聞いていると小野は恥ずかしくなった。野球に明け暮れていて、肝心の就職活動もまだ
何も行っていない小野。何となく他の二人に遅れを取っているなと感じ始めた。
翌年の春。小野も晴れて高校を卒業し、昨年の暮れに何とか内定を受けた長野市内の
建設会社に入社した。社長が野球好きで、高校野球の長野県予選準優勝の実績も考慮
されたらしい。その会社は野球部があり県の実業団大会でそこそこの成績を収めている。
会社側は、小野が入社すれば野球部の戦力が上がるとして採用したみたいだ。
小野は再び野球ができる喜びと、社長から幾らかでもよく思われているという自信から、
会社でも成績を少しずつ伸ばしていった。
その年の夏、長谷川が一大決心をしたのであった。小さい時からの憧れで目標としてい
た【歌手デビュー】の夢を掴む所まで辿り着いたのであった。
きっかけは長谷川が愛読している芸能雑誌の広告だった。それは芸能プロダクションの
広告で、ロックグループ新規結成のためにメンバーをオーディションで選定するとの事。
たとえグループの中の一人でも芸能界デビューできる。長年の夢が叶うと思い、一念発起
して応募した。
一ヵ月後長谷川の元へ手紙が届いた。芸能プロからで、めでたく一次審査突破した為、今
度の日曜日に行われる最終審査に来てほしいとの事。
長谷川は(夢がまた一歩近づいた)と喜び、一人ささやかに祝宴(といっても近くの食堂で
とんかつを食べたのだが)を開いた。
そして運命の日曜日、長谷川は銀座にある芸能プロに赴き、最終審査を受けた。自慢の
ギターで指定された曲を自信たっぷりに歌い終え、簡単な質問に答えた。
監督員たちも長谷川の演奏と応対に好感的だった。
(全ての事はやったつもりだ)と思い、試験会場を後にした。
数日後、長谷川の元に手紙が届いた。
芸能プロからで中身はなんと、【オーディション合格】と書かれていた一枚の用紙と、十数
枚の書類だった。
「ついに夢が叶ったんだ!!」長谷川は涙を流した。
早速友人に「ついに念願のロック歌手としてデビューできる」と手紙を書いた。
届いた書類の中の【芸能界デビューの心構え】と共に添付されていた、【契約前にすべき事】
をクリアするため、両親を必死で説得し、会社も退社した。
ちなみにそこには【スキャンダルを防ぐため恋人や愛人とは別れよ】と書いてあったが、独
身の長谷川にとっては無縁だった。
そして芸能プロに正式契約して、ついに長谷川は新規グループ【キャロライン】のギター担当
として華やかにデビューしたのであった。
結成後初のライブには、はるばる長野から小野と松本も祝いに駆けつけてきた。
ライブ後、2人に再会し、「すっかり有名人になっちゃったじゃない!」「夢がか叶っておめで
とう!」「レコード必ず買うから!」の声援が送られた。
長谷川もこの時ばかりは幼なじみの顔に戻り、「これからも応援宜しく。二人もがんばれよ」
と言った。
キャロラインも結成当初は幅広い層に支持を得ていたが、音楽業界の主流がニューミュージ
ックに移行するにつれ、人気も衰えてきた。
2年後の昭和50年に、グループのリーダーが婦女暴行事件を起こし、芸能プロが責任を取り、
グループは解散、レコードもすべて廃盤するという処分を行った。
解散後も長谷川は運良く同じ芸能プロに留まる事ができたが、その後はソロ歌手に転向して
フォーク風の歌を歌っていたが、人気がなく、半年後に芸能プロダクションから解雇された。
小野や松本がその事実を知ったのはその半年後だった。
昭和54年。3人は東京・新宿の居酒屋で再会した。もう25歳になっていた。25歳にして初め
て挫折を味わった長谷川を励ます為に集まった。身なりこそはしっかりしてハンサムな顔つき
の長谷川がこの日ばかりは暗くやや神妙な顔つきで入店してきた。
事情を前もって聞いていた2人は長谷川に、
「今までの事はいい思い出として心に残しまた新たな道を築けばいい」と諭した。
長谷川の目には10年経ちすっかり立派になった二人が映っている。しかも苦労して今の地位
に就いているという自信すらも読み取れる。
小野は長野の建設会社の現場主任となり、県内各地のダム工事の監督に携わっている。
松本は運転手試験に落ちたが、車掌業務をしている。
感心の眼差しで見ている長谷川に対し、小野は、「俺だって毎日上司や関係機関から押し
付けられて大変なんだよ」と愚痴をこぼした。
松本も、「最近会社の合理化とかで駅の業務廃止や人員削減が始まっている。俺だってい
つ首になるか分からないよ」と言った。
「長谷川なら芸があるからすぐに仕事が見つかるから安心しなよ」と励まされた。
そして、「みんなも頑張れよ」と励ました。
今日は何だか励まし会みたいになってしまった。酒の量も通常より多くなっていった……
その年の夏、何かが吹っ切れたかのように長谷川は一念発起して、芸能関係とは程遠い
中堅の電気製品製造会社に就職した。まだまだ25歳だし、ある程度顔が広かったので何と
か就職ができたのであった。もっともこれからはごく普通社会人であるので派手な生活では
ないし金回りも悪くなる。けれど長谷川にとっては幸せであった。
ある程度収入は減ってもここでがんばれば生活は保障されるし、以前の歌手生活では突
然解雇という事態もあったが、ここで仕事を頑張れば特に生活の心配をしなくてもいいし。
まあ、今までの歌手人生は「ひとつの思い出」として心に留めておこうと決意したのだった。
昭和56年。日本は2度の石油危機を乗り越え、その反省から始まった省エネルギー技術の
進歩とともに、新たな技術革新の波が押し寄せ始めていた。
松本が勤務している私鉄会社も機械化が進み、手始めとして主な駅に自動券売機が導入さ
れた。乗客に対して便利になる一方で、鉄道会社の人員を確実に減らす要因となった。
ご多分にも漏れず松本も機械化の影響を受け私鉄を任意退職した。特別に通常の3割増し
の退職金が付いたからだが、完全に会社側の人員減らしの口車に乗せられた形だった。松
本にとって大きな挫折であった。予期せぬ退職喚起運動と上司からの露骨な退職そそのか
し……松本は毎日のいじめに耐え切れなかったのであった。
事実を知った友人が駆けつけてきて、今までの働きをねぎらい、励まされたおかげでいくらか
気持ちが和らいだ。
松本も初めて自分が慰められる立場になって、遅ればせながら(俺たちの友情は不滅だ)と
痛感させられたのであった。
その甲斐あってか、松本も数ヵ月後、岐阜県に拠点を持つ運送会社に就職が決まった。親元
を離れ営業所のある岐阜県多治見市に行くのは躊躇ったが、自分の生活維持と自己発見の為
他県に行くのも悪い事ではないと思った。それに多治見ならば、中央本線で一本で長野に帰れる
し、友人も応援してくれるし。そう思うと苦ではなくなってきたのであった。
長野駅。小野と長谷川が松本の再就職&転出の祝いに来てくれた。
「多治見に行っても頑張れよ!」「たまには電話してくれよ!」
声援と励ましを受けた松本は目から涙がこぼれた。
(ああ、俺はこんなにいい友人を持って幸せだな……)と思い、多治見での新生活に期待を新
たにするのであった。そして松本は二人から餞別品を戴き、握手を交わすと名古屋行きの特急
電車に乗り込んだ。