幼なじみの40年       「書き込み寺」 第20回企画参加作品  お題:友達、夏の終わり
  昭和39年9月。
 東京オリンピック開催・新幹線開業を翌月に控え、日本が世界で注目し始めた頃、長野県の
とある市にある小さな集落に一軒の駄菓子屋が営業していた。
 以前は小さな村の中心部で、役場や学校や商店が立ち並びそこそこ開けていた。
 けど、昭和30年代前半の【昭和の大合併】によって、大きな市の一地区になり、役場は閉鎖さ
れ、その結果人口が市の中心部に流れ地区の過疎化が始まっていた。
 商店や学校は残ったものの、かつての勢いはなくなりつつあった。その中でも駄菓子
屋は近所の子供たちに人気があり繁盛していた。今では郵便切手や食料品等も扱い、
以前ほどではないが地区の中心的商店の役割も果たしてる。
 午後3時、今日もまた学校帰りの小学生で駄菓子屋がにぎわっている。2学期が始まっ
たものの夏の終わりは続いていて、小学生男子は全員ランニングに半ズボン姿だ。
「今日はこれからどうしようか?学校の裏山の川原でザリガニでも釣って遊ぼうか?」
 小学4年の小野一郎は仲間に問いかけた。
「そうだな。あの川なら魚も虫も沢山いるし、何時間いても飽きないな」
 同じクラスの松本章が答えた。
「それならここで菓子を買って早速川原に出陣だな」
 長谷川修二も賛同した。
 小野、松本、長谷川の3人は近所の幼なじみで小さいときからの遊び仲間であった。
背が高い小野がグループのリーダー的存在であった。  
 3人はいつもの川原に着いた。駄菓子屋から5分もかからない学校の裏山で、子供たち
から見ればまさに【楽園】であった。きれいな川が流れているし、広い原っぱはあるし、木
登りできる高い木もあった。
 靴を脱いで川に入り小魚をつかみ取りし、それを棒にくくりつけてザリガニ釣りの餌にし
た。木の棒に餌をつけた糸を川面に垂らし3分後、長谷川が大きなザリガニを捕まえた。
「やったあ!」3人は歓喜した。
 川遊びをしていると突然長谷川がこう言い出した。
「これから僕たち大人になったら何するのだろう?」
 予想外の発言に2人は釣り竿の動きを止めた。
「そう言えば、余りそんな事考えてなかったな。いつまでも子供という訳でもないし」
小野が答えた。更に、
「どうせ親は『勉強していい会社に入りなさい』と言うだろうな」
 松本は少し考えると、「僕は鉄道が好きだから電車の運転手になりたいな!」と答えた。
夢のある発言に2人は感心した。
「そんなら僕は歌手だな。レコード出して人気者になるんだ」
 長谷川が、さも得意ありげに答えた。
「じゃあ小野君は?」との問いに小野は、
「夢は大きく社長だな。沢山の人を遣って大金持ちになる!」
 3人ともその時きちんと考えていたのか、単なる思い付きかどうかは分からないが、この
時が将来について語った最初の出来事だった。もちろんごく普通の小学生の「夢」である
が、その時本当に夢が実現するとは3人とも全く思っていなかった。
 昭和44年。高速道路が開通し生活文化も向上。大量生産・大量消費時代に突入した。
 3人も中学3年生になっていた。
長野では昭和40年代になっても地域の就職難の為、就職列車が東京に向けて走って
いた。さすがに昭和30年代の全盛期と比べては集団就職する人数は減ってきているが。  
 3人の幼なじみにも家庭の事情から就職組になった人が出た。
 比較的裕福であった小野以外の二人は中学卒業と同時に就職する事になった。
 小野は長野市内の高校にめでたく合格した。松本は親戚のコネで念願の長野県内の鉄
道会社の就職が決まった。長谷川は集団就職で東京の金属加工会社に就職が決まった。
 翌年3月。中学卒業式の翌日、長野駅に小野と松本は長谷川の見送りに駆けつけた。
生活が良くなったのか、集団就職者は長野地区全体で70人位まで減っていた。
 昭和30年代には毎年数百人の学生が臨時の就職列車に乗って、「大東京」へ夢と希望
を持って生まれ故郷を旅立ったそうだが……
 今では定期急行列車の一両分に全員が入ってしまうまでになった。それでも全員新た
な地で働き、一人前になってくるという夢と希望の気持ちで溢れている。
 長谷川は窓を開けて幼なじみの二人に握手し、
「行って来ます!東京で頑張ってくるよ!」
と就職への決意を表した。小野と松本は、
「俺達はずっと仲間だからな!」
「頑張れよ!」
「たまには手紙くれよ!」
と、長谷川を励ました。
 3人の友情を確かめ、再会を約束しているうちに発車ベルが無残にも駅に響く。ベルが鳴
り止むと急行列車はゆっくりと長野駅を発車した。2人はその列車が見えなくなるまで手を振
り続けた。
 4月。小野は晴れて高校生になった。これから毎日いつもの駄菓子屋の前に新しくできた
路線バスの停留所から駅に向かい、そこから私鉄で10分の所にある県立高校に通うのだ。
 駅で改札を通ると見慣れた人が切符を切っていた。
(何だ、松本じゃないか)と心の中でつぶやいた。
 どうやら彼も念願が叶ったみたいだ。後日松本に聞くと、新人はまず改札係から始め、それか
ら数年で駅配属や車掌見習いになるそうだ。
 それぞれ新しい生活になじんで一生懸命頑張っている。
 小野も学業に一生懸命励もうと心に誓った。
 小野の家に長谷川から手紙が届いたのは5月の初旬だった。
『小野君お元気ですか?僕は、今東京の練馬という所にある金属工業会社に勤めていま
す。会社の近くにあるアパートに一人暮らしで、慣れない都会生活を送っています。仕事
は厳しいですが、同期に入った仲間が僕と同じバンド好きな人がいて、お互い励ましあった
り一緒に音楽弾いたりして何とか毎日を過ごしています……』
 手紙を読み終えると、小野は(長谷川もがんばってるな)と感じた。
 そう言う小野自身も高校に入ってから野球部に入り、運動能力は飛躍的に向上しつつあ
った。もちろん勉学の方も人並みに?励んだため成績は中の上を維持していた。
 3人が再会したのはそれから3年後の昭和48年だった。
 小野が所属している野球部が、夏の高校野球の予選を順当に勝ち進みとうとう決勝戦ま
でコマを進めたのだ。高校としても初の決勝進出とだけあって生徒を始め教諭や校長、さ
らには近所の人までもが晴れの決勝戦を見ようと応援に駆けつけたのであった。
 部員も自らの晴れ姿を見て貰う為、家族や友人を呼び出し応援に誘った。もちろん小野も
高校3年で最後の夏だということで、おさななじみの松本と長谷川を決勝戦に誘った。
 もちろん喜んで駆けつけてくれた。特に東京にいる長谷川は、正午の試合開始に間に合
うように、上野から朝早くの急行電車に乗って長野に来てくれたのだ。
(こうして友人が俺の晴れ舞台を応援してくれている。みんなの期待に応えなくては……)
と思い試合に臨んだ。
 しかし対戦相手は何度も甲子園に行っている強豪高。前半は何とか互角に戦い、小野自
らが放ったタイムリーヒットなどで3-1とリードしていたが、終盤8回に相手チームの強打者か
ら逆転ホームランを浴びせられて、結局3-5で負けてしまった。
 小野たちの努力も空しく初の甲子園の切符が消えてしまった。けれどスタンドから割れん
ばかりの声援をいただき、少しは気持ちもやわらいだ。
 閉会式で準優勝メダルを戴いたときはさすがに小野も頬がほころび、入部の時からさっき
の決勝戦までの輝かしい戦歴が脳裏をよぎった。