当時は正月の間はどの店も閉まっているのが常であった。しかし例外が一箇所だけある。
それはおもちゃ屋である。なんといっても正月は「お年玉出費」という書き入れ時であるから
だ。この町も例外ではない。
息子は一目散におもちゃ屋に向かった。正月と言う事で凧や双六と言った正月用玩具を中
心に販売していた。
彼も凧を購入した。もちろん春雄からもらったお年玉の中から捻出したのは言うまでもない。
凧と言うものは一人であげるのも悪くはないが、友人や家族が見ている中であげるのは気
持ちのいいものである。
とりあえず午後から父と一緒に凧あげをしようと思い、凧揚げをする気もつを抑え家に向か
った。
すでに春雄は家に帰っていて新聞を読んでいる。当時の新聞も今と同じように元旦だけは
ページ数も多く折り込みチラシも多かった。それをゆっくり読むのが毎年楽しみである。何しろ
単身赴任先では会社の中でしか新聞を読めないからである。
「お父さん、午後から広場で凧揚げしようよ」
「ゆっくりしたいけど、少しの時間ならいいよ」
息子は喜んだ。
午後、近所の広場で凧揚げをした。
当時の正月は凧揚げは今よりも良く遊んでいた。何しろ電線がない広い原っぱが町のあち
こちにあったからだ。
春雄は久しぶりに子供と遊んだ。凧もうまく風に乗り高く上がった。しばらくすると近所の子
供たちも凧を揚げている。
やはり人がうまく凧を揚げているをみるとやってみたくなるものかもしれない。ではまず見る
事のできない味のある正月風景もいえる。
こうして元旦の一日も暮れて行った。
(たまには子供と遊ぶのはいいものだ)と思った。
元旦の夕飯もおせちと雑煮である。実際正月の間は餅がなくなるまでは同じパターンが続
くのである。
しかし当時の人はそれでも良かったのである。餅やおせち料理は正月中の保存食と言う色
合いが濃く、店が開くまでの正月料理として食べている事が多かったからだ。
さて川田家ではというと、夕飯後も子供の時間であった。
去年の正月からずっとしまっておいた福笑いとカルタを持ってきて、
「夜はこれをやろう!」
と言い出したのである。
正月はいつの時代も子供にとって楽しい期間である。なにしろお年玉はもらえるし楽しい遊び
もできるからである。こういった喜びは果たして現代っ子にはあるであろうか?
福笑いやカルタは正月以外に遊んでもあまり面白くないのは子供でも分かっているらしく、こ
の時ばかりは、と言う気持ちで短い時間楽しんでいた。
子供が主体の時間は、たいてい子供が眠くなったらお開きと言う構図である。
息子も一日中はしゃいでいたのか父と遊んだのが久しぶりだったのか9時には寝てしまった。
「やれやれ、子供は無邪気だな」
と春雄と啓子は言った。
けど二人も小さいときは同じ道を歩んだのである。
「大人の時間」になり、4人はお屠蘇を飲みながら少しの時間語り合った。
これからの生活の事、仕事の事、子供の事……。正月だからこそゆっくり話せるのも魅力で
もある。
1月2日
今日は春雄が福岡に帰る日である。
交通事情が良くないので4日の仕事始めに間に合うには遅くとも今日の夜には東京を発たな
いといけない。
当時はすでに飛行機はあったが、とても高額であった。東京〜福岡間の飛行機運賃は鉄道
運賃の10倍だったのである。今では考えられないが、当時の人にとって飛行機はまさに高嶺
の花であった。
また道路事情も悪く、当時は高速道路は日本には全くなかった(日本初の高速道路・名神高
速道路は昭和40年開業)
したがって高速バスもなく、長距離となると庶民はもっぱら鉄道での移動しかできなかった
のである。
春雄は、家族に東京駅を夜に発車する急行列車「筑紫」号で博多に帰ると話した。
実際にはもっと遅い時間に発車する急行「さつま」でも良かったが、あまり遅く家を出るのも
寒かろうと思い一本前の列車にしたのである。
正月も2日になってもまだまだ松の内である。もちろん店も会社も営業していないので町は
静かである。
息子と凧あげをしたり双六をしたりしてもいいが、せっかく東京に居るうちにしておかなくては
ならない事がある。
それは年始周りである。
最近ではあまり見かけなくなったが、親戚や知人の年始のあいさつ回りによく行っていたも
のであった。
こういうイベントは意外と子供の方が好きなのである。理由は簡単。お年玉がたくさんもら
えるからである。もちろん同じくらいの金額のお年玉を親が払っているのであるが……
おせちとお雑煮を食べて一休みすると、春雄は息子を連れて近所に年始に行った。
当時は年始の習慣が定着していたので、家には誰かが残っていなければならない。その為
啓子と両親は家で留守番にしているのである。
歩いて5分もしないうちに一件目の家に着いた。
「明けましておめでとうございます」
玄関先で挨拶をし、お年玉ももらった。
しかし玄関にいくつかの靴があるのを見ると、「今は別のお客が来ているみたいなのでこれ
で失礼します」といいそそくさと家を後にした。
息子は不満そうだった。おせちやお菓子にありつけると思ったからである。しかしお年玉をも
らっただけでもこの際いいかと納得した。
それからも何件か年始に回ったがほとんどの家で玄関先での挨拶だけであり、部屋に上がっ
たのは一軒だけであった。
けど息子は満足したみたいだった。そこの家で昼ごはんとしておせちと雑煮とみかんをお腹い
っぱい戴いたからである。
たとえ親戚や知り合いであっても年始でその家に上がって飲食することはあまりしなかったそ
うである。
むしろ上がるように勧められても理由をつけて断るのが一種の礼儀とされていたみたいだった。
年始周りと言えば家に上がっていろいろと話をする地域もあるが、一日に数多くの家を回る習
慣があった昭和30年代では大体このような形式であった。
さすがに半日町内を回るのは疲れる。2人が家に帰ったのは午後3時過ぎであった。
息子は半日で1000円近くお年玉が入ったと喜んでいる。今の金額にすれば1万円くらいである。
今も昔も一万円となると子供にとってはかなりの大金である。
おそらくその大金は翌日には母親の元に行ってしまうのであるが、
「こんなに大金をもつと悪い子になるから、そうならないように貯金にしておいたから」といって息
子を安心させるのであろう。
けどそうとは知らずに喜んでいる息子を見て(無邪気なものだな)と思ってしまった。
夕飯までの間春雄は奥の部屋でのんびりしていた。ゆっくりできる時間はあと少しである。
こういう何もしない時間があるというのも正月ならではである。
事情を知っている啓子は何も言わず夕飯の準備をしている。
夕飯といっても正月なのでお雑煮や焼いた餅程度である。しかし今日は春雄が福岡に帰る日
という事で、特別に年末に買っておいたハムを切って食卓に並べた。
今ではおせちも洋風になってハムや焼き豚類はおせちでは当たり前になっている。しかし昭和
30年代ではまだまだ少数派であった。
その為普段と違う豪華なおせちという事で一家は満足した。
夕飯も終わり、いよいよ帰る時間になった。
「それじゃあ帰るから。今度はお盆のときになるかな。風邪を引かず元気でな」
意外とそっけないものである。けど夫婦として愛情は伝わっている。
春雄は川田家を出て、駅に向かった。そして東京駅午後8時30分発の急行「筑紫」に乗って一
路博多へと向かった。
啓子は春雄を見送った後、
「これでまたしばらくは会えなくなるのね」
としみじみ言った。
何となく家から火が消えた感じになり、その日は夕飯を食べ終わったらそのまま寝てしまった。
それはおもちゃ屋である。なんといっても正月は「お年玉出費」という書き入れ時であるから
だ。この町も例外ではない。
息子は一目散におもちゃ屋に向かった。正月と言う事で凧や双六と言った正月用玩具を中
心に販売していた。
彼も凧を購入した。もちろん春雄からもらったお年玉の中から捻出したのは言うまでもない。
凧と言うものは一人であげるのも悪くはないが、友人や家族が見ている中であげるのは気
持ちのいいものである。
とりあえず午後から父と一緒に凧あげをしようと思い、凧揚げをする気もつを抑え家に向か
った。
すでに春雄は家に帰っていて新聞を読んでいる。当時の新聞も今と同じように元旦だけは
ページ数も多く折り込みチラシも多かった。それをゆっくり読むのが毎年楽しみである。何しろ
単身赴任先では会社の中でしか新聞を読めないからである。
「お父さん、午後から広場で凧揚げしようよ」
「ゆっくりしたいけど、少しの時間ならいいよ」
息子は喜んだ。
午後、近所の広場で凧揚げをした。
当時の正月は凧揚げは今よりも良く遊んでいた。何しろ電線がない広い原っぱが町のあち
こちにあったからだ。
春雄は久しぶりに子供と遊んだ。凧もうまく風に乗り高く上がった。しばらくすると近所の子
供たちも凧を揚げている。
やはり人がうまく凧を揚げているをみるとやってみたくなるものかもしれない。ではまず見る
事のできない味のある正月風景もいえる。
こうして元旦の一日も暮れて行った。
(たまには子供と遊ぶのはいいものだ)と思った。
元旦の夕飯もおせちと雑煮である。実際正月の間は餅がなくなるまでは同じパターンが続
くのである。
しかし当時の人はそれでも良かったのである。餅やおせち料理は正月中の保存食と言う色
合いが濃く、店が開くまでの正月料理として食べている事が多かったからだ。
さて川田家ではというと、夕飯後も子供の時間であった。
去年の正月からずっとしまっておいた福笑いとカルタを持ってきて、
「夜はこれをやろう!」
と言い出したのである。
正月はいつの時代も子供にとって楽しい期間である。なにしろお年玉はもらえるし楽しい遊び
もできるからである。こういった喜びは果たして現代っ子にはあるであろうか?
福笑いやカルタは正月以外に遊んでもあまり面白くないのは子供でも分かっているらしく、こ
の時ばかりは、と言う気持ちで短い時間楽しんでいた。
子供が主体の時間は、たいてい子供が眠くなったらお開きと言う構図である。
息子も一日中はしゃいでいたのか父と遊んだのが久しぶりだったのか9時には寝てしまった。
「やれやれ、子供は無邪気だな」
と春雄と啓子は言った。
けど二人も小さいときは同じ道を歩んだのである。
「大人の時間」になり、4人はお屠蘇を飲みながら少しの時間語り合った。
これからの生活の事、仕事の事、子供の事……。正月だからこそゆっくり話せるのも魅力で
もある。
1月2日
今日は春雄が福岡に帰る日である。
交通事情が良くないので4日の仕事始めに間に合うには遅くとも今日の夜には東京を発たな
いといけない。
当時はすでに飛行機はあったが、とても高額であった。東京〜福岡間の飛行機運賃は鉄道
運賃の10倍だったのである。今では考えられないが、当時の人にとって飛行機はまさに高嶺
の花であった。
また道路事情も悪く、当時は高速道路は日本には全くなかった(日本初の高速道路・名神高
速道路は昭和40年開業)
したがって高速バスもなく、長距離となると庶民はもっぱら鉄道での移動しかできなかった
のである。
春雄は、家族に東京駅を夜に発車する急行列車「筑紫」号で博多に帰ると話した。
実際にはもっと遅い時間に発車する急行「さつま」でも良かったが、あまり遅く家を出るのも
寒かろうと思い一本前の列車にしたのである。
正月も2日になってもまだまだ松の内である。もちろん店も会社も営業していないので町は
静かである。
息子と凧あげをしたり双六をしたりしてもいいが、せっかく東京に居るうちにしておかなくては
ならない事がある。
それは年始周りである。
最近ではあまり見かけなくなったが、親戚や知人の年始のあいさつ回りによく行っていたも
のであった。
こういうイベントは意外と子供の方が好きなのである。理由は簡単。お年玉がたくさんもら
えるからである。もちろん同じくらいの金額のお年玉を親が払っているのであるが……
おせちとお雑煮を食べて一休みすると、春雄は息子を連れて近所に年始に行った。
当時は年始の習慣が定着していたので、家には誰かが残っていなければならない。その為
啓子と両親は家で留守番にしているのである。
歩いて5分もしないうちに一件目の家に着いた。
「明けましておめでとうございます」
玄関先で挨拶をし、お年玉ももらった。
しかし玄関にいくつかの靴があるのを見ると、「今は別のお客が来ているみたいなのでこれ
で失礼します」といいそそくさと家を後にした。
息子は不満そうだった。おせちやお菓子にありつけると思ったからである。しかしお年玉をも
らっただけでもこの際いいかと納得した。
それからも何件か年始に回ったがほとんどの家で玄関先での挨拶だけであり、部屋に上がっ
たのは一軒だけであった。
けど息子は満足したみたいだった。そこの家で昼ごはんとしておせちと雑煮とみかんをお腹い
っぱい戴いたからである。
たとえ親戚や知り合いであっても年始でその家に上がって飲食することはあまりしなかったそ
うである。
むしろ上がるように勧められても理由をつけて断るのが一種の礼儀とされていたみたいだった。
年始周りと言えば家に上がっていろいろと話をする地域もあるが、一日に数多くの家を回る習
慣があった昭和30年代では大体このような形式であった。
さすがに半日町内を回るのは疲れる。2人が家に帰ったのは午後3時過ぎであった。
息子は半日で1000円近くお年玉が入ったと喜んでいる。今の金額にすれば1万円くらいである。
今も昔も一万円となると子供にとってはかなりの大金である。
おそらくその大金は翌日には母親の元に行ってしまうのであるが、
「こんなに大金をもつと悪い子になるから、そうならないように貯金にしておいたから」といって息
子を安心させるのであろう。
けどそうとは知らずに喜んでいる息子を見て(無邪気なものだな)と思ってしまった。
夕飯までの間春雄は奥の部屋でのんびりしていた。ゆっくりできる時間はあと少しである。
こういう何もしない時間があるというのも正月ならではである。
事情を知っている啓子は何も言わず夕飯の準備をしている。
夕飯といっても正月なのでお雑煮や焼いた餅程度である。しかし今日は春雄が福岡に帰る日
という事で、特別に年末に買っておいたハムを切って食卓に並べた。
今ではおせちも洋風になってハムや焼き豚類はおせちでは当たり前になっている。しかし昭和
30年代ではまだまだ少数派であった。
その為普段と違う豪華なおせちという事で一家は満足した。
夕飯も終わり、いよいよ帰る時間になった。
「それじゃあ帰るから。今度はお盆のときになるかな。風邪を引かず元気でな」
意外とそっけないものである。けど夫婦として愛情は伝わっている。
春雄は川田家を出て、駅に向かった。そして東京駅午後8時30分発の急行「筑紫」に乗って一
路博多へと向かった。
啓子は春雄を見送った後、
「これでまたしばらくは会えなくなるのね」
としみじみ言った。
何となく家から火が消えた感じになり、その日は夕飯を食べ終わったらそのまま寝てしまった。