12月29日
せっかく列車で一日近くかけて東京に帰ってきた春雄さんに大掃除を手伝うのはかわいそ
うだと思った。しかし天井の煤払いだけはやらなければならない。啓子は背が低いのでどうし
ても届かないのである。
奥の部屋でごろごろしている春雄さんに
「すみませんが、煤払いがまだなので手伝ってもらいませんか?」と頼んだ。
春雄はいやな顔ひとつしないで快諾した。
当時は道路も舗装されてなく、比較的ほこりっぽかった。また住宅も密閉性があまりなかっ
た為どうしても部屋の中も埃や蜘蛛の巣ができやすかったのである。それを年末に取り除き
綺麗にするのが煤払いの目的である。
家全体を一日で行うので家族総出で行うのが普通であった。
啓子と老夫婦は主に床の雑巾がけや家具のほこり落としの担当で春雄が天井の掃除、息
子がちりとりで埃をまとめる役割だ。
当時は掃除機も高級品なので庶民で所有している家は少なく、まだまだ箒やハタキが主流
であった。その為掃除も手間もかかる。けどそれほど大きくない家であるし、家族全員で団結
して取り組んだので、午後には終わってしまった。
午後からはおせち料理作りである。当時はおせち料理の多くは家で作るのが普通であった。
そのため八百屋や乾物屋は年末には多くの買い物客でにぎわっていた。
大掃除の終わった台所は啓子さんとお姑さんとでおせち料理作りにいそしんでいる。しかし
あいにく醤油を切らしてしまった。
「義母さん、すみませんがお醤油を切らしてしまったので酒屋まで買いに行ってきます」
と言い、醤油のビンを持って酒屋に向かった。
年末の夕方だけあってどの家も大掃除をしたりおせち料理を作ったりと急がしそうである。さ
すが師走だけある。
商店街も年末だけあって食材を買う客や掃除道具を買う人で結構にぎわっている。
啓子は酒屋に入り、醤油を一升(約1.8リットル)購入した。
当時は尺・升・匁(もんめ)・貫など物の単位に【尺貫法】が広く用いられたが、昭和34年に廃
止されてメートル法に改正された後もしばらくは尺貫法は使われていた。
一升瓶を持って帰ろうとすると店員が、
「来年も当店をよろしく」と粗品のカレンダーを手渡した。
一ヶ月ごとにカレンダー部分が切り取れるおなじみのタイプである。
当時は一般商店でも年末になるとお得意の客に粗品を差し上げる習慣があった。今でも行
っている店も多い。
家に帰り、早速茶の間にカレンダーを張った。
着物姿の女優の写真付きのカレンダーで、定番な形あるがカレンダーがあるのと無いので
は家の雰囲気が違ってくる。
台所では煮しめと芋キントンが出来上がり田作りと膾(なます)を作っている最中である。啓
子は姑の料理を手伝った。
こうしておせち料理作りは夜まで続いたのであった。
12月30日
大掃除とおせち料理が終われば年末の準備も峠を越えた。
当時は「年末」と言えば忘れてはならないものがある。
それは集金である。
今では新聞以外の公共料金は銀行振り込みになっているが、当時はまだ店の人が一軒一
軒集金に来た。
また今では考えられないことだが、各商店も【つけ】で買えたので、月末(店によっては年末)
には商店からも集金に来たのであった。
実は昨日買った醤油も川田家ではつけ払いで月末に集金したのであった。
午前中に、酒屋と炭屋(暖房用の練炭を売る店で、昭和30年代には存在していた)からの
集金を払った。そして昼には米屋がやって来た。年末の米屋は特別で、搗き立ての餅も一緒
に届けるのである。
啓子は米代と餅代を払った。米屋で搗いたのかまだ柔らかい。
夕方、啓子は春雄さんに頼んで少し硬くなった餅を切ってもらったのは言うまでもない。
12月31日
笑っても泣いても昭和31年は今日で終わりである。明日から新しい年が始まる。
今年はまあまあいい年だった。来年も何事もなく安泰にすごしたいと思った。
啓子は明日の準備を着々と行った。
のし餅は昨日のうちに全部切ったし、お雑煮のしたくも出来上がっている。お年玉も新年の
箸も用意ができている。
年末からばたばたと数多くの準備をしたが、春雄さんにも手伝ってくれて無事に終わった
だけでもほっとしている。
ほっとしていると「年越しそばが茹で上がった」と姑の声がした。
ちょうど男たちが銭湯から帰ってきたのを見計らって茹でたそばをどんぶりに入れた。
年越しそばを食べ、来年一年の平穏無事を祈った。
その後は新年を迎えるのを待つのみである。みかんや菓子を食べたり家族でトランプをした
りしながらラジオ(当時はTVは高価だった)の紅白歌合戦を家族で楽しんだ。
そして番組も終わりになった頃、外から除夜の鐘が鳴り始めた。家の近所にある寺から鐘
を突いているので家の中でもはっきり聞こえる。子供も小学生になると鐘の音も怖がらなく
なっている。
柱時計の針が0時を指した。
「明けましておめでとうございます」
昭和32年、新しい年の始まりだ。当時はTVもなく初詣に参る人以外は新年を迎えると寝て
しまう人も少なくなかった。
川田家も例外ではなく新年を迎えるとすぐに全員寝てしまった。
昭和32年1月1日
正月と言うものはいつの時代も心が改まる。川田家も新鮮な気持ちで正月を迎えた。
「明けましておめでとう」
改めて家族で挨拶をした。
春雄は息子にお年玉を差し上げた。もちろん息子は喜んでいる。なぜならお年玉に100円
札が入っていたからだ。
当時の物価と子供の小遣いを考えても100円は高額に値する。いつも子供と遊ぶ事がで
きないので、せめてもの気持ちとしてお年玉はいつも多めに入れているのである。
茶の間にはお重に入ったおせち料理と雑煮とお屠蘇が並んでいる。現在と違って決して豪
華な食材が入っているわけでもない質素なものであった。
当時は野菜の多い素朴なものであったが手作りの良さが生きていてとても美味しいものだ。
新年なので新しい箸を使っての食事である。新年に箸を替える習慣は今でも続いている。
最近はお屠蘇の習慣はなくなりつつあるが正月ならではの味のある風習と言える。
新年初の食事も済み、すでに届いていた年賀状を見た。企業の年賀状では印刷のものも
あるにはあったが、ほとんどが手書きのものであった。各人それぞれに手書きならではの味
わいがある。
やはり一家の主である春雄宛の者が多いが、息子宛のも同級生を中心に結構届いてい
た。今ではあまり見かけなくなった芋版でスタンプされた年賀状もあり、それはそれで結構
ほほえましかった。
一通り年賀状に目を通すと一家は初詣に出かけた。家の外は昨日までの慌しさが嘘のよう
に静まり返っている。
車は走ってなく、人通りも少ない。その人も初詣か年始に行くのか皆きれいに着飾っている。
初詣といっても近所の神社である。都内に住んでいるので有名な寺社には行けるが川田家
ではまずその様な所には行かない。初詣の客で込むところにわざわざ行きたくないし、電車
賃かけていっても疲れるだけである、と考えているからだ。
それに祈願するのは近所の神社でも十分であるからだ。そのような考えを持つ多くの人で
神社はにぎわっている。
都内といっても小さい神社なのでさすがに露店は出ていなかったが、社務所でお守りやお
札を売っていたり、地元の人が甘酒を振舞っていたりしていたのでそこそこにぎわっていた。
一家は今年一年の家内安全を祈願した。すると神社で顔見知りの人と出合った。
「春雄じゃないか。久しぶりだな」
「今は福岡に単身赴任しているんだ」
どうやら春雄の学生時代の同級生である。
昔は交通事情や通信事情が良くなく、一度音信不通になるとそれ以降は会えなくなる事
が多い。しかし今と違って盆正月に故郷に戻る人が多いので、初詣の時に行く地元の神社
がプチ同窓会場になることも良くあった。
こうなると完全に学生時代に戻ってしまうのであり、思い出話に花が咲くのも無理もない。
だんだん息子は退屈になっている。それに気づいた啓子は、
「お昼までには家に帰ってくるのよ」と言った。息子は喜んで神社を後にした。
せっかく列車で一日近くかけて東京に帰ってきた春雄さんに大掃除を手伝うのはかわいそ
うだと思った。しかし天井の煤払いだけはやらなければならない。啓子は背が低いのでどうし
ても届かないのである。
奥の部屋でごろごろしている春雄さんに
「すみませんが、煤払いがまだなので手伝ってもらいませんか?」と頼んだ。
春雄はいやな顔ひとつしないで快諾した。
当時は道路も舗装されてなく、比較的ほこりっぽかった。また住宅も密閉性があまりなかっ
た為どうしても部屋の中も埃や蜘蛛の巣ができやすかったのである。それを年末に取り除き
綺麗にするのが煤払いの目的である。
家全体を一日で行うので家族総出で行うのが普通であった。
啓子と老夫婦は主に床の雑巾がけや家具のほこり落としの担当で春雄が天井の掃除、息
子がちりとりで埃をまとめる役割だ。
当時は掃除機も高級品なので庶民で所有している家は少なく、まだまだ箒やハタキが主流
であった。その為掃除も手間もかかる。けどそれほど大きくない家であるし、家族全員で団結
して取り組んだので、午後には終わってしまった。
午後からはおせち料理作りである。当時はおせち料理の多くは家で作るのが普通であった。
そのため八百屋や乾物屋は年末には多くの買い物客でにぎわっていた。
大掃除の終わった台所は啓子さんとお姑さんとでおせち料理作りにいそしんでいる。しかし
あいにく醤油を切らしてしまった。
「義母さん、すみませんがお醤油を切らしてしまったので酒屋まで買いに行ってきます」
と言い、醤油のビンを持って酒屋に向かった。
年末の夕方だけあってどの家も大掃除をしたりおせち料理を作ったりと急がしそうである。さ
すが師走だけある。
商店街も年末だけあって食材を買う客や掃除道具を買う人で結構にぎわっている。
啓子は酒屋に入り、醤油を一升(約1.8リットル)購入した。
当時は尺・升・匁(もんめ)・貫など物の単位に【尺貫法】が広く用いられたが、昭和34年に廃
止されてメートル法に改正された後もしばらくは尺貫法は使われていた。
一升瓶を持って帰ろうとすると店員が、
「来年も当店をよろしく」と粗品のカレンダーを手渡した。
一ヶ月ごとにカレンダー部分が切り取れるおなじみのタイプである。
当時は一般商店でも年末になるとお得意の客に粗品を差し上げる習慣があった。今でも行
っている店も多い。
家に帰り、早速茶の間にカレンダーを張った。
着物姿の女優の写真付きのカレンダーで、定番な形あるがカレンダーがあるのと無いので
は家の雰囲気が違ってくる。
台所では煮しめと芋キントンが出来上がり田作りと膾(なます)を作っている最中である。啓
子は姑の料理を手伝った。
こうしておせち料理作りは夜まで続いたのであった。
12月30日
大掃除とおせち料理が終われば年末の準備も峠を越えた。
当時は「年末」と言えば忘れてはならないものがある。
それは集金である。
今では新聞以外の公共料金は銀行振り込みになっているが、当時はまだ店の人が一軒一
軒集金に来た。
また今では考えられないことだが、各商店も【つけ】で買えたので、月末(店によっては年末)
には商店からも集金に来たのであった。
実は昨日買った醤油も川田家ではつけ払いで月末に集金したのであった。
午前中に、酒屋と炭屋(暖房用の練炭を売る店で、昭和30年代には存在していた)からの
集金を払った。そして昼には米屋がやって来た。年末の米屋は特別で、搗き立ての餅も一緒
に届けるのである。
啓子は米代と餅代を払った。米屋で搗いたのかまだ柔らかい。
夕方、啓子は春雄さんに頼んで少し硬くなった餅を切ってもらったのは言うまでもない。
12月31日
笑っても泣いても昭和31年は今日で終わりである。明日から新しい年が始まる。
今年はまあまあいい年だった。来年も何事もなく安泰にすごしたいと思った。
啓子は明日の準備を着々と行った。
のし餅は昨日のうちに全部切ったし、お雑煮のしたくも出来上がっている。お年玉も新年の
箸も用意ができている。
年末からばたばたと数多くの準備をしたが、春雄さんにも手伝ってくれて無事に終わった
だけでもほっとしている。
ほっとしていると「年越しそばが茹で上がった」と姑の声がした。
ちょうど男たちが銭湯から帰ってきたのを見計らって茹でたそばをどんぶりに入れた。
年越しそばを食べ、来年一年の平穏無事を祈った。
その後は新年を迎えるのを待つのみである。みかんや菓子を食べたり家族でトランプをした
りしながらラジオ(当時はTVは高価だった)の紅白歌合戦を家族で楽しんだ。
そして番組も終わりになった頃、外から除夜の鐘が鳴り始めた。家の近所にある寺から鐘
を突いているので家の中でもはっきり聞こえる。子供も小学生になると鐘の音も怖がらなく
なっている。
柱時計の針が0時を指した。
「明けましておめでとうございます」
昭和32年、新しい年の始まりだ。当時はTVもなく初詣に参る人以外は新年を迎えると寝て
しまう人も少なくなかった。
川田家も例外ではなく新年を迎えるとすぐに全員寝てしまった。
昭和32年1月1日
正月と言うものはいつの時代も心が改まる。川田家も新鮮な気持ちで正月を迎えた。
「明けましておめでとう」
改めて家族で挨拶をした。
春雄は息子にお年玉を差し上げた。もちろん息子は喜んでいる。なぜならお年玉に100円
札が入っていたからだ。
当時の物価と子供の小遣いを考えても100円は高額に値する。いつも子供と遊ぶ事がで
きないので、せめてもの気持ちとしてお年玉はいつも多めに入れているのである。
茶の間にはお重に入ったおせち料理と雑煮とお屠蘇が並んでいる。現在と違って決して豪
華な食材が入っているわけでもない質素なものであった。
当時は野菜の多い素朴なものであったが手作りの良さが生きていてとても美味しいものだ。
新年なので新しい箸を使っての食事である。新年に箸を替える習慣は今でも続いている。
最近はお屠蘇の習慣はなくなりつつあるが正月ならではの味のある風習と言える。
新年初の食事も済み、すでに届いていた年賀状を見た。企業の年賀状では印刷のものも
あるにはあったが、ほとんどが手書きのものであった。各人それぞれに手書きならではの味
わいがある。
やはり一家の主である春雄宛の者が多いが、息子宛のも同級生を中心に結構届いてい
た。今ではあまり見かけなくなった芋版でスタンプされた年賀状もあり、それはそれで結構
ほほえましかった。
一通り年賀状に目を通すと一家は初詣に出かけた。家の外は昨日までの慌しさが嘘のよう
に静まり返っている。
車は走ってなく、人通りも少ない。その人も初詣か年始に行くのか皆きれいに着飾っている。
初詣といっても近所の神社である。都内に住んでいるので有名な寺社には行けるが川田家
ではまずその様な所には行かない。初詣の客で込むところにわざわざ行きたくないし、電車
賃かけていっても疲れるだけである、と考えているからだ。
それに祈願するのは近所の神社でも十分であるからだ。そのような考えを持つ多くの人で
神社はにぎわっている。
都内といっても小さい神社なのでさすがに露店は出ていなかったが、社務所でお守りやお
札を売っていたり、地元の人が甘酒を振舞っていたりしていたのでそこそこにぎわっていた。
一家は今年一年の家内安全を祈願した。すると神社で顔見知りの人と出合った。
「春雄じゃないか。久しぶりだな」
「今は福岡に単身赴任しているんだ」
どうやら春雄の学生時代の同級生である。
昔は交通事情や通信事情が良くなく、一度音信不通になるとそれ以降は会えなくなる事
が多い。しかし今と違って盆正月に故郷に戻る人が多いので、初詣の時に行く地元の神社
がプチ同窓会場になることも良くあった。
こうなると完全に学生時代に戻ってしまうのであり、思い出話に花が咲くのも無理もない。
だんだん息子は退屈になっている。それに気づいた啓子は、
「お昼までには家に帰ってくるのよ」と言った。息子は喜んで神社を後にした。