年末年始 (昭和三十年代の庶民の生活シリーズ)
 昭和30年代は現代と違い、年末年始は独特の雰囲気があった。年末は慌しく、年始はゆっ
たりと時間が流れていた。
 この物語は、昭和31年の年末年始のごくありふれた一般庶民の日常生活を文章にて再現
したものである。

 昭和31年12月26日。東京都内のある町に住む川田さん一家。一家といってもご主人は九
州の福岡で単身赴任をしている。
 クリスマスも終わって、書き残していた年賀状を書き終え、ポストに投函し家に戻ったら、玄
関に郵便局の人が立っていた。
「川田さん、電報ですよ」
 当時は電報が広く使用されていて、比較的急ぎの用件の伝達に一般市民も大いに活用さ
れていた。専業主婦の啓子さんは配員から電報を受け取ると早速通信文を読んだ。
【アシタデシゴトオサメナノデ アシタノヤコウデカエル ハルオ】(当時は電報はカタカナ表記
だった)
 単身赴任している主人の春雄さんが明日帰省するとの事。啓子はとても喜んだ。
 何しろ盆と正月しか帰れないのである。年末年始は久しぶりに一家水入らずが出来る数少
ない期間である。
 「さて、一休みをしたら大掃除に取り掛かるか!」
 当時の大掃除は一家総出で行うのが普通であった。しかし男手がない川田家では毎年あ
っさりと終わらしている。
 障子の張替えも1年おき程度だし、畳の表替えもほとんどしていない。
 旦那の単身赴任が終わればある程度力の要る大掃除もできるのだが、今は仕方なく必要
最小限の大掃除をしている。
 しかし煤(すす)払いは必ずしなければならなかった。その為どうしてもある程度の時間はか
かってしまう。
12月27日
 今日は朝から雨が降っている。予定していた玄関の掃除や門松飾りは午後に回して、雨が
降っていて湿度が高い事から思い切って障子の張替えをしようと決めたのである。
 昔から障子張りは晴れているよりも天気が悪いときに行った方がいいと云う生活の知恵が
ある。雨の日に障子を貼ると、翌日晴天だとノリが乾いたときに表面がピンとなるからである。
 ちょうど子供も雨で暇そうにしていたので、
「家中の障子を全部破いていいのよ!」と言うと、子供は目の色を変えて障子を破き始めた。
 こういう事はなぜか子供も大人も心が不思議にときめく物である。【してはいけないこと】を
許される喜びと【破壊】の楽しみからであろう。
 けど子供と言うものはわがままな生き物で、障子を全部破いてしまったらあっという間にどこ
かに行ってしまった。
 まあそれも仕方の無いことである。自分もかつて同じような事をしたかもしれない。
 残されたものはびりびりに破けて散らばっている障子紙と骨組みと少しの障子紙の残った障
子だけ。啓子は障子を骨組みだけにして、上から新しい障子紙を張った。
 こつをつかめばあっという間にきれいな障子に張り替えられるものである。
 外は雨が上がり空が明るくなっている。
 散らかった障子紙を片付けると明るくなった空を見つめ少し休んだ。
「あと4日でお正月か……」
 なぜか大人も子供も正月を楽しみにしていた。普段の日と同じように朝になると太陽がが昇
り夕方になると太陽が沈むだけなのになぜかうきうきしていたものである。やはり一年で一番
特別な日という印象が強かったのであろう。
 玄関の掃除と門松を玄関の脇に釘で打ち込むとそれだけで正月が来たような感じがした。
 夕方、電話のベルが鳴った。春雄さんからである。
「今仕事終わったからこれから急行雲仙号で東京に向かう。家には明日の夕方に着く」
 たったこれだけの電話である。
 当時は市内通話料金は一通話あたりの時間制限なかったが、市外通話はものすごく高かっ
た。その為春雄さんの電話も必要な要件だけであった。
「明日帰ってくるか……」それだけで啓子はうれしかった。
 国鉄博多駅。午後7時34分に鹿児島駅からやって来た急行、霧島号が到着した。
 春雄は旅行かばんと弁当と茶を持って車内に乗り込んだ。
 博多駅からは寝台車も連結されるが、春雄の会社は一流ではなく、それほど多くボーナス
も出なかったので3等座席で我慢する事にした。
 午後7時50分、11両の客車と荷物車を連結した急行列車霧島号が一路東京へと向かった。
 当時は交通事情が悪く、国内の長距離移動は鉄道しかなかった。しかも鉄道も現在よりも
貧相であり、ほとんどの区間がSLによる運行であった。その為運転本数が今よりもはるかに
少なかった。もっとも当時は旅行がそれほど一般的ではなかった事も一因として挙げられる。
 しかし機関車はある程度多量の車両を連結してもパワーがある事からどの列車もかなりの
長い編成で運行していた。
 時期柄ほとんどの客が東京や大阪に帰省する人で満席状態だった。そして数時間後、列
車は関門海峡を通り抜け本州に入った頃には春雄をはじめ帰省する乗客の多くは眠りにつ
きはじめていた。

12月28日
 春雄は慣れない座席で夜を明かした。毎年帰省の度に夜行列車を使っているが、乗車中
の食事はたいてい駅弁を利用している。けど今年は奮発して食堂車で食事をしようと決めた。
 今では考えられないが、昭和50年代くらいまでは長距離を走る特急列車や電車には必ず
食堂車が連結していた。しかも昭和30年代頃までは急行列車でも夜行列車には食堂車が
ついていた。もっともこの時代は駅弁も車内販売もそれほど充実してなく、ましてはコンビニ
弁当もない時代、列車の中と言う閉鎖的空間内での食事は食堂車を設けて自前で処理す
るしかなかったのかもしれない。
 春雄は食堂車に行き120円の和朝食を頼んだ。料理は温かいもののお世辞にも美味しい
とは言えないが、車内での食事なので贅沢は言えない。
 朝食を食べ終わりもとの座席に戻ると、列車は兵庫県内に入り【もうすぐ大阪駅に着く】とい
うアナウンスが聞こえてきた。
 一方東京の川田家では、仏壇と神棚を掃除した後、おせちの食材や正月から使う箸とお年
玉用のポチ袋などを買いに町に出かけた。ついでに今日の夕方に春雄さんが久しぶりに帰っ
てくるので酒の肴でも買って帰ろうと魚屋に入った。
 さすがに魚屋だけあっておせちの食材のほかに刺身など正月用の食材が多くそろえている。
「奥さん、今日は酢だこがお買い得だよ」
 確かに安い。おせちのお重に入れる人は早々と買ってしまうので今となっては売れ残りに近
い状態である。
 酢だこは去年のおせちには入れていない。(たまにはいいか)と思い奮発して購入した。真っ
赤な酢だこは、さも美味しそうである。
 思い切って買ったはいいが肝心の酒の肴を忘れてしまった。酢だこも刺身の一種であるが
これはおせちのお重の中に入れて正月まで待つとして、とりあえず別のものでもいいかと思い
肉屋に入った。
 当時はおせちの中に食肉加工品を入れることは余りなかった。その為魚屋よりは客が少な
かった。
 やはり年末と言うことで売れ残り品を処分価格で売られていた。
 当時は今のように賞味期限についてはうるさくなかったのであるが、売れ残り品は早々と
安くしてしまっていたらしい。
 啓子はお歳暮の売れ残り品のようなハムを安く買って家路に向かった。
 家に帰ると早速買ってきた蒲鉾や伊達巻といった家で作れないおせちの食材を包丁で切
り、きれいにお重に並べた。
 今年は思い切って買った酢だこも入れたので見た目が豪華になった。煮しめや黒豆といっ
た家で作るおせちはまた明日以降準備をする事にした。
 午後5時25分。春雄を乗せた急行霧島号は、1000キロメートルもの長旅を終え、無事に東
京駅に到着した。
 車両からたくさんの荷物を持った乗客が次々通り、それぞれの自宅に向かって散っていっ
た。春雄も山手線に乗り換えて久しぶりの我が家へと向かった。そして午後6時を過ぎに家
に着いた。
「ただいま」
 春雄の声が久しぶりに川田家に響く。
「お帰りなさい!」
 家族全員の声も響く。特に子供ははしゃいでる。
 その日の夕食は春雄の好きな刺身すら無かったものの、心も体も温まる寄せ鍋であった。
もちろん日本酒とハムも揃っている。
 久しぶりに一家で楽しい夕飯と食後の団欒の時間を過ごした。そして春雄は自宅の床でゆ
っくりと眠った。