それ以来だんだん健一も社交性に富むようになってきて、会社からも地域からも信頼される地
位になってきた。もちろん正義を働かせると、時折警察や地域住民からの感謝状も何枚か戴く
のだが、その際にも少しずつであるが感謝の気持ちを言えるようになってきた。
もちろん彼自身も少しずつ人間性を取り戻してきたと実感するようになってきた。確かに人とし
て正しい事をするのは当たり前だが、感謝やお礼を素直に受け取るのも人間として当然の責務
なのではないか、と思った。もちろん自分の心を変えるきっかけを作った「あの時」の酒屋の娘さん
にも感謝しないといけない。
(おそらくあの時このような対応をしてくれなければ俺はずっとあのままだったのかもしれない)と
も感じてきた。
昭和50年代、健一が25歳になったある夏、彼に一大転機が訪れてきたのである。
その日に限って仕事が重なり、残業をした結果終電車で帰る事になった。
車内は閑散としている。客としてちらほらと見受けられるのが仕事帰りのサラリーマン、水商売
らしい女性の人、そして酔っ払いだ。
健一はこの電車の終点の3駅手前で降りる。夜も遅いため乗る人はいなく、電車が駅に止まる
につれだんだんと乗客が減ってくる。
健一の前の席に30代くらいのやや厚化粧の女性が居眠りをしている。そしてしばらくすると隣
の車両から乱れたワイシャツを着てネクタイも緩みきっている酔っ払いの会社員がやってきた。
酔っ払いは女性が寝ているのをいい事に、山ほど空席があるにもかかわらず何の躊躇もなく女
性の隣に座り、肩を組んだり太ももを触ってきたりした。
(ここまではあの時の酒場と同じ展開だな……)
と思った。いつものように健一は【正義】が心の深くからふつふつと働いてきた。
「おい、酔っ払い!車内堂々と女性にいたずらするな!」
ここまではいつもの通りである。しかしこの後が違っていた。その言葉にカチンと来た酔っ払い
はすかさず健一の胸倉をつかみ、持っていたかばんで彼の頭を数回たたいた。
「痛い!なにをする!」
女性客はすぐその場から逃げ出し車掌に連絡をした。健一は頭をたたかれたショックで車内の
床に横たわってしまった。そのとき車掌が駆けつけてきて酔っ払いを拘束し、次の駅で待ちかね
ていた警察官に取り押さえられた。
健一はしばらく床にうずもれたままこう思った。(バッジの力が切れたのだ!)
彼が再び起き上がったのはこの路線の終着駅だった。
「あ……気がついたみたいですね。良かった」
健一の脇でさっきの女性がずっと看病していたのであった。彼の頭にはこぶができていた。そ
して腕にも傷ができていて少し血が流れていた。すると車掌が現れて、
「気がついたようですね。この電車は車庫に入りますので速やかに降りてください」
との淡々とした声。健一は女性と車掌に肩を支えながら電車から降りた。健一の乗った電車は終
電で、おまけに反対方面の電車の運行もすでに終わっていた。
財布の中身が少ないけどタクシーで帰るしかないか……、と困り果てていると、その女性が、
「もしあなたが一人暮らしであるのなら、私の家でよかったら泊まってください。嫌な酔っ払いか
ら助けてくれたのですからせめてこのくらいはさせてください」
健一は喜んだ。「怪我がなくてよかったですね。いつものようにかっこいいところを見せようと
したのですがちょっとうまくいかなくて……帰りをどうしようかと思っていたところでした。あなたの
礼は確かに受け取ります」
今までの彼ならば絶対に口にしない味のある言葉だった。助けてもらった人に真に礼を受ける
ことができたのはひょっとして高橋以来の事かもしれない。駅前でタクシーに乗り約10分。2人
はその女性のアパートに到着した。
その女性は水谷恵美といい、近くの町の喫茶店で働いている。その日はたまたま遅くまで仕
事をしていたという。
健一より2つ年上であるが、あの時の立派な行動に感動し魅了され、それ以来二人は付き合
うようになった。恵美自身も勇気があって頼もしい人が好みだったそうである。
一年後、二人は結婚した。
もちろん結婚式の際には福島から高橋一家も参加してきた。
健一は結婚してからは安定した生活を送っていた。今ではごく当たりまえの手助けはするが、
自分に危害が与えるような事は昔のように黙然と振舞うようになった。あのバッジの効力は完全
になくなったのである。それもその筈。あの時酔っ払いに絡まれた時に頭に殴られた事で、(痛
みが戻ってきている)と痛感させられたからだ。
ある日曜日。散らかっている自分の部屋の整理をする為に、本棚にある読み終えた雑誌を整理
していると、本棚の奥から子供の時の思い出が詰まっている形のゆがんだ菓子箱を見つけた。結
婚するまでなかなか捨てられずに残していたのだが、今となっては宝物だったおもちゃも今となっ
てはゴミ同様に違いない。菓子箱を開けると、通知表と写真だけを残してその他多数のおもちゃを
ゴミ袋に次々と捨てていった。例の忌々しい鬼の形をした【正義バッジ】も菓子箱の隅に転がってい
た。かつての真っ赤な色が嘘のように色あせてしまっている。バッジ全体が薄っ茶けた色に変化し
ている。完全にガラクタに化していたのであった。すっかり変わり果てたバッジを見て、
「ああ、やはり俺はこれっぽっちも正義も勇気もなかったのだな……」と思った。もちろんそれが
普通のことなのだが。
翌日、健一は自分の人生を強制的に振り回されていた正義バッジを二度と自分の許に来るなと
言う思いを込めて、近所の橋の下から川に投げ捨てた。
(ああ、これで忌々しい過去から【卒業】し、普通の人間に戻ったんだ……)彼の心に不思議に安堵
感が広がった。
健一は改めて、真の正義というものは1日2日では簡単には身につかないという事を肌で感じた
のであった。
それはこんな事故があったからである。
結婚して3年後、二人の間に男の子が生まれ、別段これといった手もかからずに健やかに育って
いった。まあ、健やか過ぎてやんちゃになってしまったけど。
ある秋のことであった。9月の中旬に関東地方に比較的大きな台風が上陸したが、幸い小島家は
たいした被害がなかった。
翌日、いわゆる台風一過の青空が広がった。一家は昨日は全く家から出なかったので近くの公
園に散策に行く事にした。
子供は2歳なのでもう一人であちこち歩きまわれる。そこに【落とし穴】があった。
健一が子供から目を放したその一瞬、子供は公園の脇にあった用水路に近づいていった。用水
路は昨日の台風の影響で水位が普段の倍くらいあり、水の勢いもとても強かった。
その時悲劇が起こった。子供が用水路にかかっている橋を渡ろうとしたその時、足元の石につま
ずき用水路にかかる橋の上から落ちてしまったのだ!
用水路の水は流れが速く子供はみるみるうちに流されている。
健一はとっさの出来事で付近の人に大声で助けを求めるくらいしかできなかった。恵美もその場
でうずくまって泣き出している。子供の泣き声が時々健一の耳に届く。けど今の段階では彼は完
全に動揺してしまい正義も勇気も彼の体のどこからも湧いてこなかった。
するとどこからともなく助けを聞いた一人の若者が用水路のフェンスを越え、おぼれている長男
を救った。
健一も恵美も用水路の下流に駆けつけた。そして若者から息子を引き取った。息子は水を飲ん
でいるもののまだ意識がある。誰が呼んだのか救急車も駆けつけてきてくれた。
恵美は息子を抱きかかえ救急車で近くの病院へと向かった。
救急車が去ったときに健一はその若者に対し最大限の礼を言った。
「この度は私の大切な息子を救っていただいて本当に有難うございました」
すると若者は一言こういった。
「子供がおぼれていたら助ける、当たり前の事をしただけです」
その若者はそういうとその場を去ろうとした。
健一はすかさず「ぜひお礼がしたいです。せめて名前と連絡先を……!」すると、
「名乗るほどではありません。当たり前のことをしただけですので」
と言うと、笑顔一つも見せずに公園をあとにした。
位になってきた。もちろん正義を働かせると、時折警察や地域住民からの感謝状も何枚か戴く
のだが、その際にも少しずつであるが感謝の気持ちを言えるようになってきた。
もちろん彼自身も少しずつ人間性を取り戻してきたと実感するようになってきた。確かに人とし
て正しい事をするのは当たり前だが、感謝やお礼を素直に受け取るのも人間として当然の責務
なのではないか、と思った。もちろん自分の心を変えるきっかけを作った「あの時」の酒屋の娘さん
にも感謝しないといけない。
(おそらくあの時このような対応をしてくれなければ俺はずっとあのままだったのかもしれない)と
も感じてきた。
昭和50年代、健一が25歳になったある夏、彼に一大転機が訪れてきたのである。
その日に限って仕事が重なり、残業をした結果終電車で帰る事になった。
車内は閑散としている。客としてちらほらと見受けられるのが仕事帰りのサラリーマン、水商売
らしい女性の人、そして酔っ払いだ。
健一はこの電車の終点の3駅手前で降りる。夜も遅いため乗る人はいなく、電車が駅に止まる
につれだんだんと乗客が減ってくる。
健一の前の席に30代くらいのやや厚化粧の女性が居眠りをしている。そしてしばらくすると隣
の車両から乱れたワイシャツを着てネクタイも緩みきっている酔っ払いの会社員がやってきた。
酔っ払いは女性が寝ているのをいい事に、山ほど空席があるにもかかわらず何の躊躇もなく女
性の隣に座り、肩を組んだり太ももを触ってきたりした。
(ここまではあの時の酒場と同じ展開だな……)
と思った。いつものように健一は【正義】が心の深くからふつふつと働いてきた。
「おい、酔っ払い!車内堂々と女性にいたずらするな!」
ここまではいつもの通りである。しかしこの後が違っていた。その言葉にカチンと来た酔っ払い
はすかさず健一の胸倉をつかみ、持っていたかばんで彼の頭を数回たたいた。
「痛い!なにをする!」
女性客はすぐその場から逃げ出し車掌に連絡をした。健一は頭をたたかれたショックで車内の
床に横たわってしまった。そのとき車掌が駆けつけてきて酔っ払いを拘束し、次の駅で待ちかね
ていた警察官に取り押さえられた。
健一はしばらく床にうずもれたままこう思った。(バッジの力が切れたのだ!)
彼が再び起き上がったのはこの路線の終着駅だった。
「あ……気がついたみたいですね。良かった」
健一の脇でさっきの女性がずっと看病していたのであった。彼の頭にはこぶができていた。そ
して腕にも傷ができていて少し血が流れていた。すると車掌が現れて、
「気がついたようですね。この電車は車庫に入りますので速やかに降りてください」
との淡々とした声。健一は女性と車掌に肩を支えながら電車から降りた。健一の乗った電車は終
電で、おまけに反対方面の電車の運行もすでに終わっていた。
財布の中身が少ないけどタクシーで帰るしかないか……、と困り果てていると、その女性が、
「もしあなたが一人暮らしであるのなら、私の家でよかったら泊まってください。嫌な酔っ払いか
ら助けてくれたのですからせめてこのくらいはさせてください」
健一は喜んだ。「怪我がなくてよかったですね。いつものようにかっこいいところを見せようと
したのですがちょっとうまくいかなくて……帰りをどうしようかと思っていたところでした。あなたの
礼は確かに受け取ります」
今までの彼ならば絶対に口にしない味のある言葉だった。助けてもらった人に真に礼を受ける
ことができたのはひょっとして高橋以来の事かもしれない。駅前でタクシーに乗り約10分。2人
はその女性のアパートに到着した。
その女性は水谷恵美といい、近くの町の喫茶店で働いている。その日はたまたま遅くまで仕
事をしていたという。
健一より2つ年上であるが、あの時の立派な行動に感動し魅了され、それ以来二人は付き合
うようになった。恵美自身も勇気があって頼もしい人が好みだったそうである。
一年後、二人は結婚した。
もちろん結婚式の際には福島から高橋一家も参加してきた。
健一は結婚してからは安定した生活を送っていた。今ではごく当たりまえの手助けはするが、
自分に危害が与えるような事は昔のように黙然と振舞うようになった。あのバッジの効力は完全
になくなったのである。それもその筈。あの時酔っ払いに絡まれた時に頭に殴られた事で、(痛
みが戻ってきている)と痛感させられたからだ。
ある日曜日。散らかっている自分の部屋の整理をする為に、本棚にある読み終えた雑誌を整理
していると、本棚の奥から子供の時の思い出が詰まっている形のゆがんだ菓子箱を見つけた。結
婚するまでなかなか捨てられずに残していたのだが、今となっては宝物だったおもちゃも今となっ
てはゴミ同様に違いない。菓子箱を開けると、通知表と写真だけを残してその他多数のおもちゃを
ゴミ袋に次々と捨てていった。例の忌々しい鬼の形をした【正義バッジ】も菓子箱の隅に転がってい
た。かつての真っ赤な色が嘘のように色あせてしまっている。バッジ全体が薄っ茶けた色に変化し
ている。完全にガラクタに化していたのであった。すっかり変わり果てたバッジを見て、
「ああ、やはり俺はこれっぽっちも正義も勇気もなかったのだな……」と思った。もちろんそれが
普通のことなのだが。
翌日、健一は自分の人生を強制的に振り回されていた正義バッジを二度と自分の許に来るなと
言う思いを込めて、近所の橋の下から川に投げ捨てた。
(ああ、これで忌々しい過去から【卒業】し、普通の人間に戻ったんだ……)彼の心に不思議に安堵
感が広がった。
健一は改めて、真の正義というものは1日2日では簡単には身につかないという事を肌で感じた
のであった。
それはこんな事故があったからである。
結婚して3年後、二人の間に男の子が生まれ、別段これといった手もかからずに健やかに育って
いった。まあ、健やか過ぎてやんちゃになってしまったけど。
ある秋のことであった。9月の中旬に関東地方に比較的大きな台風が上陸したが、幸い小島家は
たいした被害がなかった。
翌日、いわゆる台風一過の青空が広がった。一家は昨日は全く家から出なかったので近くの公
園に散策に行く事にした。
子供は2歳なのでもう一人であちこち歩きまわれる。そこに【落とし穴】があった。
健一が子供から目を放したその一瞬、子供は公園の脇にあった用水路に近づいていった。用水
路は昨日の台風の影響で水位が普段の倍くらいあり、水の勢いもとても強かった。
その時悲劇が起こった。子供が用水路にかかっている橋を渡ろうとしたその時、足元の石につま
ずき用水路にかかる橋の上から落ちてしまったのだ!
用水路の水は流れが速く子供はみるみるうちに流されている。
健一はとっさの出来事で付近の人に大声で助けを求めるくらいしかできなかった。恵美もその場
でうずくまって泣き出している。子供の泣き声が時々健一の耳に届く。けど今の段階では彼は完
全に動揺してしまい正義も勇気も彼の体のどこからも湧いてこなかった。
するとどこからともなく助けを聞いた一人の若者が用水路のフェンスを越え、おぼれている長男
を救った。
健一も恵美も用水路の下流に駆けつけた。そして若者から息子を引き取った。息子は水を飲ん
でいるもののまだ意識がある。誰が呼んだのか救急車も駆けつけてきてくれた。
恵美は息子を抱きかかえ救急車で近くの病院へと向かった。
救急車が去ったときに健一はその若者に対し最大限の礼を言った。
「この度は私の大切な息子を救っていただいて本当に有難うございました」
すると若者は一言こういった。
「子供がおぼれていたら助ける、当たり前の事をしただけです」
その若者はそういうとその場を去ろうとした。
健一はすかさず「ぜひお礼がしたいです。せめて名前と連絡先を……!」すると、
「名乗るほどではありません。当たり前のことをしただけですので」
と言うと、笑顔一つも見せずに公園をあとにした。