酒場の奥で女性の騒ぎ声がした。
「助けて!うちはそういう店じゃないのよ!」
良く見ると酔っ払いの中年が女性従業員の胸を触っているのだ。
酔っ払いはすでに出来上がっていて、完全にへべれけの状態である。酔いを武器に手元にい
た女性従業員にいたずらをしているのである。
そうしているうちに事態はエスカレートして、、酔っ払いは女性従業員の服を脱がし始めている。
嫌がる従業員をよそに他の客はまるで【見世物】が始まったかのように興奮し騒然としている。
そうなるのも当然だ。昭和40年代になっても、俗に言う【風俗産業】も今のように開放的ではな
く、まだまだ女性の裸を見られる店の数や種類は限られていて、いわばどの客も店員に手を出す
ことが悪いことと知っていても【裸を拝めるまたとないチャンス】と解釈し暗に黙殺しているだけだ。
この現場を目の当たりにした健一は、またいつものように「嫌がっている女性を助けたい!」と言
う正義感が心の底から一気に湧き出てきた。
健一は飲んでいたグラスをいきなりその場に投げ捨てた。店内にガラスの割れる音が響く。そし
て健一は酔っ払いに対し面と向かって
「店員さんがあんなに嫌がっているではないか。しかも服まで脱がして。そんなに女とやりたかった
らトルコ(個室つき特殊浴場・風俗店の一種)に行けばいいじゃないか!」
そして半裸になってしまった女性従業員を安全な場所に避難させた。その際にも酔っ払いは健
一に向かって腹に一発パンチを与えた。
健一は(やられた)と思った。けど全然痛みが感じないのである。その後も何度も殴られたり蹴ら
れたりされたが全然痛くないのである。
何度も攻撃をしても手ごたえを感じず平気な顔をしている健一を見ていると戦意を喪失するのは
酔っ払いの方で、だんだん抵抗しなくなってきた。
そして相手は意気消沈したのか、降参したのか、悪い事を自覚したのか、いきなり健一の目の
前で座り込んでしまった。
店員が警察に通報したらしく、やがて警官が酒場に入ってきて、その酔っ払いを暴行と婦女暴
行の疑いで現行犯逮捕され、そのままパトカーに連れられていった。
健一の体は全然傷一つ付いていなかったのである。
(・・・これがあのバッジの【力】なのか・・・)
酒場は元の静寂に戻った。健一の不思議な行動を目の当たりにした客は一斉に歓声を上げた。
「お前強いじゃない!」「見直したぜ!」「いいものを見せてくれた。今日は全部わしのおごりだ!」
あちこちから酔っ払いに勇敢に立ち向かい、罪のない女性従業員を助けたという事で賞賛され
た。 けれどどう言う訳か健一の心には「いい事をした」という清々しい気持ちが全く上がってこない
のである。ただ単に「正義の為に当たり前の事をしただけだ」という答えしかできなかったのだ。
しばらくして酔っ払いに絡まれた女性従業員が新しい服に着替えて健一の元に近づいた。
「さっきは助けてくれて有難う。この恩は決して忘れることはできません。心から感謝します。こん
な店だけど、従業員一同勇敢なあなたを歓迎いたします。店としては些細なことしかサービスは
出来ませんがこれに懲りずぜひぜひ当店を訪れてください」
何と店側からも手厚い感謝を受けたのである。聞くところによると、あの客は時々この店に来て、
へべれけになって酔っ払うと周囲の客や従業員にちょっかいを出すので店も困っていたという。
けれど健一の発言は同じであった。「いえ、人が困っていれば助けるという当たり前のことをした
だけですので」女性従業員の切なる要望もあっさりと断り酒場を後にした。
家に帰るなり健一はあのときの行動と態度に不思議に思った。
前から(バッジを手に入れてから)正義感が働くと、人が変わったように行動し徹底的に相手が疲
れたり気が済むまで攻撃を受けとめる。いわば「力道山(りきどうざん:昭和30年代に実在したプロ
レスラー)」の試合と途中までは全く同じである。
ここからが不思議である。相手がどんなに攻撃しても絶対に痛みを感じない。そして相手が退散
して(その場からいなくなって)から、被害者が助けてくれたことに感謝してもそれすらも感激しなく
なっている。
普通ならあの時の酒場の場面なら俺は鼻の下が下がりまくってしまい女性従業員の好意を最大
限受け止められたはずだ。あまよくば彼女と恋人にもなれたかもしれない……。
そのとき健一はバッジの【力】を思い知らされた。バッジをつけた人は正義感の強さに比例して
相手の攻撃を全くの無にする代わりその犠牲として自分の感情を奪われてしまうのである。
しかもその力はバッジを手にして身につけたときはあまり感じなくなってきたが、だんだんバッジ
をつけなくても効力が発揮される。しかもその力は回を重ねるごとに強くなっていく……。言い換え
るとあのバッジを身につけた人は、年数をかけて本当に【正義の味方】になってしまうのである。
健一は過去にTVや漫画で見た正義ものの作品を一つずつ自分なりに検証してみた。
正義の味方は悪者を倒し、弱者を助ける、そして最後に「決まり文句」を吐いて立ち去る。例外
はあるかもしれないが正義の味方は相手から「お礼」や「見返り」を受けず感謝されても感情を表
さないのが普通である。
(あのバッジのおかげで俺はそうなってしまったのか……)その時点で健一はバッジの力を完全
に知ってしまった。けれど正義の心は「発動」して一定時間あのような精神状態が保たれるので
ある。おそらく死ぬまでこの力は消えないのだろうか……。
確かに正義感は大切だし、悪い人を救うことは程度の差こそ違いがあるものの人のためになる。
この状態だと恐らく他人の目には「クールな人」、悪くみると「冷血な人」としか思っていないだろう。
いわば健一は正義を金で買ったのである。道具に依存するため自分の心を強制的にコントロー
ルする結果、この様な副作用が生じるのである。
こんな状態では自分の人間性までいつかは崩れてしまう……子供時代の好奇心からとはいえ、
あんなもの買うんじゃなかった……一体どうすればいいのだろうか……。
するとあのバッジが入っていた本を買った時、袋の中に紙切れが入っていたのを思い出した。
部屋のあちこちを探し回り、小学生のときの通知表や写真など、思い出が詰まった菓子箱の
中に、なかなか捨て切れないでいた正義バッジとともに破れかかっていた紙切れを発見した。
健一の記憶どおり、文末に注意書きが記されていた。
「……くれぐれも乱用せずにお願いします……」
けど「乱用」してバッジの効力が切れるだけならいいのだが、ひょっとして「自分の生命」が切れる
ようになったのなら……正義の効果を沢山発揮してバッジの効力が切れるのが早まればいいのだ
が、ますます正義心が強くなり己の人格まで破壊してしまったらどうしよう……。
健一は悩みに悩んだ。けどあの説明書きには乱用による弊害についてはどこにも書いてなかっ
た。としたら……そう思案している最中にも菓子箱の中にある真っ赤な正義バッジの不気味な輝き
は少しも色あせてなかった。
翌日から健一はどのような事があっても親切に振舞い始めた。職場で何か困った人がいれば真
になって対応し、町で道路を渡れなくて困っている老人を見かけたら手を差し伸べた。時には子供
のけんかを仲裁したり車内での痴漢を取り押さえたりもした。
最初のうちは「正義の味方」のようにクールな応対を繰り返していた。
けれどある冬の大雪の日から彼の心が少しずつ変わってきたのである。
健一が雪道をなれない足つきで歩いていたら雪道でスリップしたのか配達用のオートバイが倒れ
ていたのであった。その脇にはそれを乗っていた老人がうずくまっていた。いつもの様に【正義】を
働かせ、雪に埋まっていたオートバイを立たせ、乱雑していた酒ビン等を荷台のケースに並べた。
そして健一はそのオートバイを転がし老人をおんぶして500m先の酒屋まで導いてあげた。老人は
酒屋の店主であった。店主が帰ってきてすぐさま、待ちかねていた店主の娘が健一を見るなり、
「本当に有難う。御父さんがなかなか配達から帰ってこなかったのでずっと心配していたのです。
バイクが転倒して怪我をしたとは知らずとても恥ずかしい限りです。本当に感謝しています」
そしていつもながらの応対をする健一に対してもその娘は、
「水臭い事は抜きにして、この寒い中一生懸命運んでくれたのだから、せめてお礼がしたいです」
と言って断る健一を無理やり奥の茶の間に案内させた。そこにはどういうわけか料理と酒が用意さ
れていた。どうやら話を聞いていた店主の奥さんが気を利かせ接待の準備をしていたのであった。
複雑の心の中で健一はその酒屋のご厄介になり、料理と酒を食した。そうしているうちに「力」が
失われ、我に返ったのである。(そうか、人から感謝されるというのも悪くないな……相手も俺のし
たことを本当にありがたく思っているんだ……)
そして健一がその店を出る時は、「今日は本当に色々してくれてありがとう。おじさんに『お大事
に』と伝えてください」との言葉を娘さんと奥さんに交わしたのである。
「正義」を発動後、バッジの力に屈する事なく自分の意思が言えるようになった初めての出来事だ。
「助けて!うちはそういう店じゃないのよ!」
良く見ると酔っ払いの中年が女性従業員の胸を触っているのだ。
酔っ払いはすでに出来上がっていて、完全にへべれけの状態である。酔いを武器に手元にい
た女性従業員にいたずらをしているのである。
そうしているうちに事態はエスカレートして、、酔っ払いは女性従業員の服を脱がし始めている。
嫌がる従業員をよそに他の客はまるで【見世物】が始まったかのように興奮し騒然としている。
そうなるのも当然だ。昭和40年代になっても、俗に言う【風俗産業】も今のように開放的ではな
く、まだまだ女性の裸を見られる店の数や種類は限られていて、いわばどの客も店員に手を出す
ことが悪いことと知っていても【裸を拝めるまたとないチャンス】と解釈し暗に黙殺しているだけだ。
この現場を目の当たりにした健一は、またいつものように「嫌がっている女性を助けたい!」と言
う正義感が心の底から一気に湧き出てきた。
健一は飲んでいたグラスをいきなりその場に投げ捨てた。店内にガラスの割れる音が響く。そし
て健一は酔っ払いに対し面と向かって
「店員さんがあんなに嫌がっているではないか。しかも服まで脱がして。そんなに女とやりたかった
らトルコ(個室つき特殊浴場・風俗店の一種)に行けばいいじゃないか!」
そして半裸になってしまった女性従業員を安全な場所に避難させた。その際にも酔っ払いは健
一に向かって腹に一発パンチを与えた。
健一は(やられた)と思った。けど全然痛みが感じないのである。その後も何度も殴られたり蹴ら
れたりされたが全然痛くないのである。
何度も攻撃をしても手ごたえを感じず平気な顔をしている健一を見ていると戦意を喪失するのは
酔っ払いの方で、だんだん抵抗しなくなってきた。
そして相手は意気消沈したのか、降参したのか、悪い事を自覚したのか、いきなり健一の目の
前で座り込んでしまった。
店員が警察に通報したらしく、やがて警官が酒場に入ってきて、その酔っ払いを暴行と婦女暴
行の疑いで現行犯逮捕され、そのままパトカーに連れられていった。
健一の体は全然傷一つ付いていなかったのである。
(・・・これがあのバッジの【力】なのか・・・)
酒場は元の静寂に戻った。健一の不思議な行動を目の当たりにした客は一斉に歓声を上げた。
「お前強いじゃない!」「見直したぜ!」「いいものを見せてくれた。今日は全部わしのおごりだ!」
あちこちから酔っ払いに勇敢に立ち向かい、罪のない女性従業員を助けたという事で賞賛され
た。 けれどどう言う訳か健一の心には「いい事をした」という清々しい気持ちが全く上がってこない
のである。ただ単に「正義の為に当たり前の事をしただけだ」という答えしかできなかったのだ。
しばらくして酔っ払いに絡まれた女性従業員が新しい服に着替えて健一の元に近づいた。
「さっきは助けてくれて有難う。この恩は決して忘れることはできません。心から感謝します。こん
な店だけど、従業員一同勇敢なあなたを歓迎いたします。店としては些細なことしかサービスは
出来ませんがこれに懲りずぜひぜひ当店を訪れてください」
何と店側からも手厚い感謝を受けたのである。聞くところによると、あの客は時々この店に来て、
へべれけになって酔っ払うと周囲の客や従業員にちょっかいを出すので店も困っていたという。
けれど健一の発言は同じであった。「いえ、人が困っていれば助けるという当たり前のことをした
だけですので」女性従業員の切なる要望もあっさりと断り酒場を後にした。
家に帰るなり健一はあのときの行動と態度に不思議に思った。
前から(バッジを手に入れてから)正義感が働くと、人が変わったように行動し徹底的に相手が疲
れたり気が済むまで攻撃を受けとめる。いわば「力道山(りきどうざん:昭和30年代に実在したプロ
レスラー)」の試合と途中までは全く同じである。
ここからが不思議である。相手がどんなに攻撃しても絶対に痛みを感じない。そして相手が退散
して(その場からいなくなって)から、被害者が助けてくれたことに感謝してもそれすらも感激しなく
なっている。
普通ならあの時の酒場の場面なら俺は鼻の下が下がりまくってしまい女性従業員の好意を最大
限受け止められたはずだ。あまよくば彼女と恋人にもなれたかもしれない……。
そのとき健一はバッジの【力】を思い知らされた。バッジをつけた人は正義感の強さに比例して
相手の攻撃を全くの無にする代わりその犠牲として自分の感情を奪われてしまうのである。
しかもその力はバッジを手にして身につけたときはあまり感じなくなってきたが、だんだんバッジ
をつけなくても効力が発揮される。しかもその力は回を重ねるごとに強くなっていく……。言い換え
るとあのバッジを身につけた人は、年数をかけて本当に【正義の味方】になってしまうのである。
健一は過去にTVや漫画で見た正義ものの作品を一つずつ自分なりに検証してみた。
正義の味方は悪者を倒し、弱者を助ける、そして最後に「決まり文句」を吐いて立ち去る。例外
はあるかもしれないが正義の味方は相手から「お礼」や「見返り」を受けず感謝されても感情を表
さないのが普通である。
(あのバッジのおかげで俺はそうなってしまったのか……)その時点で健一はバッジの力を完全
に知ってしまった。けれど正義の心は「発動」して一定時間あのような精神状態が保たれるので
ある。おそらく死ぬまでこの力は消えないのだろうか……。
確かに正義感は大切だし、悪い人を救うことは程度の差こそ違いがあるものの人のためになる。
この状態だと恐らく他人の目には「クールな人」、悪くみると「冷血な人」としか思っていないだろう。
いわば健一は正義を金で買ったのである。道具に依存するため自分の心を強制的にコントロー
ルする結果、この様な副作用が生じるのである。
こんな状態では自分の人間性までいつかは崩れてしまう……子供時代の好奇心からとはいえ、
あんなもの買うんじゃなかった……一体どうすればいいのだろうか……。
するとあのバッジが入っていた本を買った時、袋の中に紙切れが入っていたのを思い出した。
部屋のあちこちを探し回り、小学生のときの通知表や写真など、思い出が詰まった菓子箱の
中に、なかなか捨て切れないでいた正義バッジとともに破れかかっていた紙切れを発見した。
健一の記憶どおり、文末に注意書きが記されていた。
「……くれぐれも乱用せずにお願いします……」
けど「乱用」してバッジの効力が切れるだけならいいのだが、ひょっとして「自分の生命」が切れる
ようになったのなら……正義の効果を沢山発揮してバッジの効力が切れるのが早まればいいのだ
が、ますます正義心が強くなり己の人格まで破壊してしまったらどうしよう……。
健一は悩みに悩んだ。けどあの説明書きには乱用による弊害についてはどこにも書いてなかっ
た。としたら……そう思案している最中にも菓子箱の中にある真っ赤な正義バッジの不気味な輝き
は少しも色あせてなかった。
翌日から健一はどのような事があっても親切に振舞い始めた。職場で何か困った人がいれば真
になって対応し、町で道路を渡れなくて困っている老人を見かけたら手を差し伸べた。時には子供
のけんかを仲裁したり車内での痴漢を取り押さえたりもした。
最初のうちは「正義の味方」のようにクールな応対を繰り返していた。
けれどある冬の大雪の日から彼の心が少しずつ変わってきたのである。
健一が雪道をなれない足つきで歩いていたら雪道でスリップしたのか配達用のオートバイが倒れ
ていたのであった。その脇にはそれを乗っていた老人がうずくまっていた。いつもの様に【正義】を
働かせ、雪に埋まっていたオートバイを立たせ、乱雑していた酒ビン等を荷台のケースに並べた。
そして健一はそのオートバイを転がし老人をおんぶして500m先の酒屋まで導いてあげた。老人は
酒屋の店主であった。店主が帰ってきてすぐさま、待ちかねていた店主の娘が健一を見るなり、
「本当に有難う。御父さんがなかなか配達から帰ってこなかったのでずっと心配していたのです。
バイクが転倒して怪我をしたとは知らずとても恥ずかしい限りです。本当に感謝しています」
そしていつもながらの応対をする健一に対してもその娘は、
「水臭い事は抜きにして、この寒い中一生懸命運んでくれたのだから、せめてお礼がしたいです」
と言って断る健一を無理やり奥の茶の間に案内させた。そこにはどういうわけか料理と酒が用意さ
れていた。どうやら話を聞いていた店主の奥さんが気を利かせ接待の準備をしていたのであった。
複雑の心の中で健一はその酒屋のご厄介になり、料理と酒を食した。そうしているうちに「力」が
失われ、我に返ったのである。(そうか、人から感謝されるというのも悪くないな……相手も俺のし
たことを本当にありがたく思っているんだ……)
そして健一がその店を出る時は、「今日は本当に色々してくれてありがとう。おじさんに『お大事
に』と伝えてください」との言葉を娘さんと奥さんに交わしたのである。
「正義」を発動後、バッジの力に屈する事なく自分の意思が言えるようになった初めての出来事だ。