徳利の酒と肴が無くなったので、2人は食堂を出て大浴場に向かった。
湯船の中でも義男は考えている。なぜ自分の地位を犠牲にしてまでも義男をかばったのか、
これが今でも心残りで仕方がなかった。今回の旅行で渋々ながら灯台に行くのを許可した背景
には、お世話になった前田さんについての情報が旅行中に少しでも見つかれば幸いだと義男自
身打算した結果からでもある。
東京の本部勤務に戻ってから以前勤務していた灯台の情報は自ら遮断したので無論義男自身
前田さんの消息については分からないし、改めて「なぜこのように接していただいたのか」を彼か
ら直接聞いた訳でもないので、当然ながら断定はできなかったが。
今でもご健在なら前田さんは90歳を越えている。高齢化社会といわれている今日。ひょっとする
と南三陸のどこかでまだまだ元気に暮らしているのかもしれない。
火事騒動の件で責任を取ったのか、一身上の理由で川上さんがこの灯台をやめ、後任として高知の灯台から転勤して
きた竹田さんが、俺のいる灯台に新たに赴任してきた。
見た感じからして海の男といった大柄の人で一見無愛想だが、意外と社交的な面もありなかなか頼りがいがありそうだ。
竹田さんは俺と同じくらいの年から国内各地の灯台を転々としてきたそうで、技術も経験も豊富らしい。
前田さんも「なかなかの大物が赴任してくれた。ここの灯台も安泰だろう」と声を高々に褒め称えていた。
もちろん灯台と言っても日本国内にある灯台全部同じ形なわけではない。所によって形も違うし灯台が建っている環境も
まるで異なっている。そのためベテランである竹田さんであれ、最初は新人として扱い、ここの灯台の環境と独自の作業
に慣れていくにしたがって専門的な業務を担当するというプログラムを組むことになった。これは何処の灯台もみな同じだ
という。考えてみれば当たり前かもしれないが。
竹田さんが入って最初の数ヶ月間はみな和気藹々と作業や談笑をしていて、順風満帆に行っていたが、それが今から
考えてみるとまさに【嵐の前の静けさ】だったのだ。
それから数日後に、この灯台開設以来の大事故が起こるとは誰も予想すらもしていなかったのであった。
あれはちょうどある冬の日、俺が非番のときのことだった。
非番のときは基本的には一応自由行動となっている。その頃になると俺も比較的自由に行動できるようになり、駅の近く
にもバイクでよく遊びに行くようになった。
今では想像がつかないだろうが、昭和40年代頃までは日本各地どんな小さい町でも少なくとも一軒は映画館があった
し、パチンコ店もあった。ただでさえ娯楽が少ない東北の片田舎、駅前にあった映画館とパチンコ店は、いつでも客が入
っていた。
俺も30歳近くになると誘惑に負けてたまにパチンコを楽しむようになった。もっとも金銭的にも負けるほうが多いのだが。
ちょうどそのときもパチンコをしていたのだった。しかも珍しく大勝をしていた。勝っているときは楽しいもので時間が経つ
のを忘れて興じるものであった。
ふと気がつくと店の外は夕焼けになっていた。冬なので夕焼け後あっという間に真っ暗になってしまう。俺は我に帰りパ
チンコを中止して大急ぎで商品交換を済まし、官舎へと急いだ。
一応官舎にも門限があり、午後6時までに戻らなければならない。
市街地を抜けるとすでに時は遅し、夜の帳(とばり)が一気に降りてしまったのだった。
今と違って派手なネオンサインはなく、外灯も少なかったので、家並みがなくなると辺り一面真っ暗闇。幸い太平洋が
近かったので行きかう船の明かりがかすかに光っているのが見えた。
俺は貧弱なバイクの明かりだけを頼りに道路を無言で走った。もちろん門限過ぎているので怒られるのは必至だったが、
今はとにかく無事帰れることが先決だ。
灯台に一番近い集落までは俺のバイクは何とか無事に走ってくれた。問題はそこからだ。舗装されていない砂利道、
俺にとってはこの帰路の中で灯台への最後の道が一番の難所だ。
一方灯台では「異変」が起きていたのだった。
海上を灯す大きいランプが急に球切れを起こしたのだった。
しかもこんな時に限って、牛島さんと竹田さんは海上ブイの点検をしていたのだった。さらにその時に限って、ブイも一箇
所故障していてその復旧作業に追われていたのであった。
そのため灯台での勤務者には前田所長しかいなかった。実際は灯台内の点検は一人でも可能なので、一応は大丈夫
だが、今回はさらに「ランプの交換作業」が加わる。
ランプの交換は高所作業になるので絶対にひとりでは作業をしないことが海上保安庁の規定で定めれれている。
その為前田さんは非番である俺を呼んで作業を手伝ってもらうことを考えた。もちろんこの行為は正しいのである。非番と
はいえ緊急業務が起きれば別なのだから。
しかし当の本人である俺はこの時町に出かけているのでここには居ないのである。前田所長は何とかしてこの問題を
解決する最善の案を練った。それにもかかわらず何処で判断を間違えたのか「一人で交換作業を行う」という結果に至っ
たのであった。
そうとは知らず俺は灯台へ続く砂利道をバイクで走っていた。もちろんすでに門限の時間はとっくに過ぎている。
ここで俺もやっと灯台の「異変」に気づいた。
(いつもは点いているはずのランプが消えている!)
きっと灯台で何かにあったに違いない。俺は息をのんだ。大急ぎで仕事場である灯台に向かった。
その瞬間バイクのハンドル操作を誤りバイクは大きな石に衝突し、その弾みでバランスが崩れバイクは見事に倒れた。
パチンコで勝ち取った賞品も辺りに乱雑に散り、俺自身も傷だらけになった。けれどそんなことよりも今は灯台の現状
が心配だ。
俺は落ちた賞品には目もくれず、倒れたバイクのエンジンを切り、抱えてバイクを元に戻した。
そしてふらつきながらも何とかバイクで灯台の通用口にたどり着いた。大急ぎで灯台内の螺旋階段を駆け登り最上階
に息を切らしながらたどり着いた。その時、全く予期せぬことが俺の目の前で起きた。
その日は昼間から台風のような大風が吹き、灯台の展望部分の外で作業をしていた前田さんの持つロープが大揺れに
揺れていた。そのロープは外の鉄柱に固定されていたので外れる心配はなかったのが幸いした。
その時前田さんは片手で交換する電球を持ち、もう片方の手でロープにしがみついていた。けれど前田さんは自分に自
信を持っていたのか安全帯(命綱)を装着していなかったのだ。
俺は大急ぎで前田さんのところに近づき鉄柱に固定されているロープをしっかりと握った。
「おお、渡辺か。話は後でする。今は灯台のランプの電球を交換するのが先決だ……」と言った直後だった。
灯台にものすごく強い風が吹いた。前田さんはバランスを失い、うっかりしてロープをつかむ手を離してしまった。
前田さんは5m上に吹き飛ばされ、灯台の柱に全身がぶつかり、そのままずり落ちたのであった。
風向きと運が悪ければ太平洋にまっさかさまに墜落する所だった。
電球を交換した直後だったのが不幸中の幸いだった。交換前ならばずっと灯台のランプが消えたままで、船の航行に
に支障が発生したに違いない。
前田さんは新品と交換した際、古いランプを必死でつかんでいたが、ぶつかった衝撃でうっかり手を離し、ランプが地面
に落下してしまった。
その直後灯台の下で何かが割れる音がした。見下ろすとランプが落ちたところにちょうど官車が止まっていたのだった。
運悪く大きな灯台のランプが車のフロントガラスにぶつかり、フロントガラスは大破してしまった。
「ああああ!!」俺は大きな精神的ショックを受けた。門限を破り、臨時作業に気づかず、作業ミスで上司に大怪我をさ
せ、備品も壊した……
時同じくして牛島さんたちの船が戻ってきたので俺は急いで2人を呼び出した。そして全員で展望台の所でうずくまって
いる前田さんを抱きかかえ、駅の近くにある病院に搬送させた。
運が良いことに前田さんは命に別状はなく、肋骨数箇所を折り全治6ヶ月の重傷で済んだ。運が悪ければ海上や地上に
落下して即死したに違いない。
病室で俺は前田さんに深く陳謝した。しかし前田さんの表情は厳しくなかった。
前田さんはあの時の状況を思い起こしながら、
「いや、あの時の判断が間違っていたのだ。あれほど禁止していた単独の高所作業を、しかも安全帯無しで行ったのだから。
渡辺が来なければきっと俺の命はなかっただろう」と答えてくれた。
海上保安庁へ提出する始末書にも、「前田所長自らが判断を誤り、個人で高所作業をした際に事故に遭った……」とだけ
記し、俺に関する事柄は全く記載されなかったのであった。
その後前田さんは無事退院したが、退院後すぐに所長職から降格され、北海道の灯台勤務として異動された。それからの
彼の足取りはつかめていない。
あの事件以来所長が牛島さんに代わり、俺に対する態度もがらりと変わった。また新しい機械および新型の設標船を導
入したのも影響し、勤務者が4人から3人に削減された。
仕事を間違えば他の職員と同じように叱られた。まあ、それが本来の姿なのだが……
それから3年経った32歳の春。俺は再び本部勤務として東京に戻る事になった。
灯台勤務最後の日、俺は牛島所長をと竹田さんから祝福激励されこの灯台を後にした。集落へ続く砂利道を越え、木
が生い茂った林を抜け、住宅地を越えた。そしていつもお世話になった港町に別れを告げると、港町の小さい駅から7時
半発の仙台行きの列車に乗り込んだ…………
湯船の中でも義男は考えている。なぜ自分の地位を犠牲にしてまでも義男をかばったのか、
これが今でも心残りで仕方がなかった。今回の旅行で渋々ながら灯台に行くのを許可した背景
には、お世話になった前田さんについての情報が旅行中に少しでも見つかれば幸いだと義男自
身打算した結果からでもある。
東京の本部勤務に戻ってから以前勤務していた灯台の情報は自ら遮断したので無論義男自身
前田さんの消息については分からないし、改めて「なぜこのように接していただいたのか」を彼か
ら直接聞いた訳でもないので、当然ながら断定はできなかったが。
今でもご健在なら前田さんは90歳を越えている。高齢化社会といわれている今日。ひょっとする
と南三陸のどこかでまだまだ元気に暮らしているのかもしれない。
火事騒動の件で責任を取ったのか、一身上の理由で川上さんがこの灯台をやめ、後任として高知の灯台から転勤して
きた竹田さんが、俺のいる灯台に新たに赴任してきた。
見た感じからして海の男といった大柄の人で一見無愛想だが、意外と社交的な面もありなかなか頼りがいがありそうだ。
竹田さんは俺と同じくらいの年から国内各地の灯台を転々としてきたそうで、技術も経験も豊富らしい。
前田さんも「なかなかの大物が赴任してくれた。ここの灯台も安泰だろう」と声を高々に褒め称えていた。
もちろん灯台と言っても日本国内にある灯台全部同じ形なわけではない。所によって形も違うし灯台が建っている環境も
まるで異なっている。そのためベテランである竹田さんであれ、最初は新人として扱い、ここの灯台の環境と独自の作業
に慣れていくにしたがって専門的な業務を担当するというプログラムを組むことになった。これは何処の灯台もみな同じだ
という。考えてみれば当たり前かもしれないが。
竹田さんが入って最初の数ヶ月間はみな和気藹々と作業や談笑をしていて、順風満帆に行っていたが、それが今から
考えてみるとまさに【嵐の前の静けさ】だったのだ。
それから数日後に、この灯台開設以来の大事故が起こるとは誰も予想すらもしていなかったのであった。
あれはちょうどある冬の日、俺が非番のときのことだった。
非番のときは基本的には一応自由行動となっている。その頃になると俺も比較的自由に行動できるようになり、駅の近く
にもバイクでよく遊びに行くようになった。
今では想像がつかないだろうが、昭和40年代頃までは日本各地どんな小さい町でも少なくとも一軒は映画館があった
し、パチンコ店もあった。ただでさえ娯楽が少ない東北の片田舎、駅前にあった映画館とパチンコ店は、いつでも客が入
っていた。
俺も30歳近くになると誘惑に負けてたまにパチンコを楽しむようになった。もっとも金銭的にも負けるほうが多いのだが。
ちょうどそのときもパチンコをしていたのだった。しかも珍しく大勝をしていた。勝っているときは楽しいもので時間が経つ
のを忘れて興じるものであった。
ふと気がつくと店の外は夕焼けになっていた。冬なので夕焼け後あっという間に真っ暗になってしまう。俺は我に帰りパ
チンコを中止して大急ぎで商品交換を済まし、官舎へと急いだ。
一応官舎にも門限があり、午後6時までに戻らなければならない。
市街地を抜けるとすでに時は遅し、夜の帳(とばり)が一気に降りてしまったのだった。
今と違って派手なネオンサインはなく、外灯も少なかったので、家並みがなくなると辺り一面真っ暗闇。幸い太平洋が
近かったので行きかう船の明かりがかすかに光っているのが見えた。
俺は貧弱なバイクの明かりだけを頼りに道路を無言で走った。もちろん門限過ぎているので怒られるのは必至だったが、
今はとにかく無事帰れることが先決だ。
灯台に一番近い集落までは俺のバイクは何とか無事に走ってくれた。問題はそこからだ。舗装されていない砂利道、
俺にとってはこの帰路の中で灯台への最後の道が一番の難所だ。
一方灯台では「異変」が起きていたのだった。
海上を灯す大きいランプが急に球切れを起こしたのだった。
しかもこんな時に限って、牛島さんと竹田さんは海上ブイの点検をしていたのだった。さらにその時に限って、ブイも一箇
所故障していてその復旧作業に追われていたのであった。
そのため灯台での勤務者には前田所長しかいなかった。実際は灯台内の点検は一人でも可能なので、一応は大丈夫
だが、今回はさらに「ランプの交換作業」が加わる。
ランプの交換は高所作業になるので絶対にひとりでは作業をしないことが海上保安庁の規定で定めれれている。
その為前田さんは非番である俺を呼んで作業を手伝ってもらうことを考えた。もちろんこの行為は正しいのである。非番と
はいえ緊急業務が起きれば別なのだから。
しかし当の本人である俺はこの時町に出かけているのでここには居ないのである。前田所長は何とかしてこの問題を
解決する最善の案を練った。それにもかかわらず何処で判断を間違えたのか「一人で交換作業を行う」という結果に至っ
たのであった。
そうとは知らず俺は灯台へ続く砂利道をバイクで走っていた。もちろんすでに門限の時間はとっくに過ぎている。
ここで俺もやっと灯台の「異変」に気づいた。
(いつもは点いているはずのランプが消えている!)
きっと灯台で何かにあったに違いない。俺は息をのんだ。大急ぎで仕事場である灯台に向かった。
その瞬間バイクのハンドル操作を誤りバイクは大きな石に衝突し、その弾みでバランスが崩れバイクは見事に倒れた。
パチンコで勝ち取った賞品も辺りに乱雑に散り、俺自身も傷だらけになった。けれどそんなことよりも今は灯台の現状
が心配だ。
俺は落ちた賞品には目もくれず、倒れたバイクのエンジンを切り、抱えてバイクを元に戻した。
そしてふらつきながらも何とかバイクで灯台の通用口にたどり着いた。大急ぎで灯台内の螺旋階段を駆け登り最上階
に息を切らしながらたどり着いた。その時、全く予期せぬことが俺の目の前で起きた。
その日は昼間から台風のような大風が吹き、灯台の展望部分の外で作業をしていた前田さんの持つロープが大揺れに
揺れていた。そのロープは外の鉄柱に固定されていたので外れる心配はなかったのが幸いした。
その時前田さんは片手で交換する電球を持ち、もう片方の手でロープにしがみついていた。けれど前田さんは自分に自
信を持っていたのか安全帯(命綱)を装着していなかったのだ。
俺は大急ぎで前田さんのところに近づき鉄柱に固定されているロープをしっかりと握った。
「おお、渡辺か。話は後でする。今は灯台のランプの電球を交換するのが先決だ……」と言った直後だった。
灯台にものすごく強い風が吹いた。前田さんはバランスを失い、うっかりしてロープをつかむ手を離してしまった。
前田さんは5m上に吹き飛ばされ、灯台の柱に全身がぶつかり、そのままずり落ちたのであった。
風向きと運が悪ければ太平洋にまっさかさまに墜落する所だった。
電球を交換した直後だったのが不幸中の幸いだった。交換前ならばずっと灯台のランプが消えたままで、船の航行に
に支障が発生したに違いない。
前田さんは新品と交換した際、古いランプを必死でつかんでいたが、ぶつかった衝撃でうっかり手を離し、ランプが地面
に落下してしまった。
その直後灯台の下で何かが割れる音がした。見下ろすとランプが落ちたところにちょうど官車が止まっていたのだった。
運悪く大きな灯台のランプが車のフロントガラスにぶつかり、フロントガラスは大破してしまった。
「ああああ!!」俺は大きな精神的ショックを受けた。門限を破り、臨時作業に気づかず、作業ミスで上司に大怪我をさ
せ、備品も壊した……
時同じくして牛島さんたちの船が戻ってきたので俺は急いで2人を呼び出した。そして全員で展望台の所でうずくまって
いる前田さんを抱きかかえ、駅の近くにある病院に搬送させた。
運が良いことに前田さんは命に別状はなく、肋骨数箇所を折り全治6ヶ月の重傷で済んだ。運が悪ければ海上や地上に
落下して即死したに違いない。
病室で俺は前田さんに深く陳謝した。しかし前田さんの表情は厳しくなかった。
前田さんはあの時の状況を思い起こしながら、
「いや、あの時の判断が間違っていたのだ。あれほど禁止していた単独の高所作業を、しかも安全帯無しで行ったのだから。
渡辺が来なければきっと俺の命はなかっただろう」と答えてくれた。
海上保安庁へ提出する始末書にも、「前田所長自らが判断を誤り、個人で高所作業をした際に事故に遭った……」とだけ
記し、俺に関する事柄は全く記載されなかったのであった。
その後前田さんは無事退院したが、退院後すぐに所長職から降格され、北海道の灯台勤務として異動された。それからの
彼の足取りはつかめていない。
あの事件以来所長が牛島さんに代わり、俺に対する態度もがらりと変わった。また新しい機械および新型の設標船を導
入したのも影響し、勤務者が4人から3人に削減された。
仕事を間違えば他の職員と同じように叱られた。まあ、それが本来の姿なのだが……
それから3年経った32歳の春。俺は再び本部勤務として東京に戻る事になった。
灯台勤務最後の日、俺は牛島所長をと竹田さんから祝福激励されこの灯台を後にした。集落へ続く砂利道を越え、木
が生い茂った林を抜け、住宅地を越えた。そしていつもお世話になった港町に別れを告げると、港町の小さい駅から7時
半発の仙台行きの列車に乗り込んだ…………