小さい旅館に宿泊中の渡辺さん一家。風呂から出ると旅の疲れもあったのかすぐに床に入った。
真夜中。ふと眼が覚めた義男は何処からか声がするのに気づいた。
「渡辺さん……」聞き覚えのある声がする。
耳を澄まさないと聞き取れないほどの小さい声だ。義男は
「誰かが俺を呼んでいる。こんな真夜中に……」
義男は浴衣の上から半纏を着るとその「姿なき声」の先を追った。
義男は宿を出ると静まり返った道路を進んだ。
小さい町なのですぐに港にたどり着いた。港からは漁船の明かりや昼に立ち寄ったあの灯台の
明かりが見える。
「渡辺さん」すぐ後ろでさっきの声がする。
振り向くとそこは作業着を着た50歳くらいの人がいた。よく見ると以前お世話になった前田さん
だった。しかもどういう訳か40年も前はじめて出逢った時と全く同じ場所、全く同じ格好で……
これは偶然なのだろうか?それとも神のいたずらなのだろうか?
義男は嬉しさのあまり涙がこぼれそうになった。
「お久しぶりです」と言い握手をしようとしたが、なぜかできない。なぜなら義男の手が前田さんの
手をすり抜けてしまう。よく見たら足が透き通っている。そうか。これは前田さんの【幽霊】なのだ。
けれどなぜ今頃になってこの世に現れたのだろうか?
(とすると前田さんはもうこの世からお亡くなりになっていたのか……)
と義男は感じた。「幽霊」の前田さんは義男に向かってこう語り始めた。
「北海道の灯台に勤務して以降、体の調子が悪くなり3年で退職した。その後病に倒れ20年前に
この世を去った」
義男は「そうでしたか。それはそれは大変な人生でした。ぜひ生前にお会いしたかったです」と当
たり障りの無い返事をした。
「俺も同じだ。手塩にかけて育てたお前の姿を見たかったが、生きてるうちにはできなかった。今
日こんな形でも会えたのが救いだ」前田さんは小さく笑みを浮かべた。
「本当です。俺も常日頃前田さんの消息はずっと気になっていたのですから」
「そうみたいだな。よく存じておる。なぜなら俺は天界に誘われた当時から宮城県の辺りにいて、
空から海の安全を見守っていたのだから」
義男は「なるほど。亡くなってもなお、ふるさとの海をずっとお守りしていたのですか……まさに灯台
守の鑑(かがみ)ですな」と前田さんに向かって手を合わせた。
「そうだ。俺が天界に来てから大きい海難事故ひとつも起きなかったのは俺のおかげといっても
過言ではない」
義男は、今が長年の謎が解けるチャンスと思いすかさず前田さんに尋ねてみた。
「話は変わりますが、なぜ俺に色々指導したのですか。失敗してもほとんど怒らなかったですし、
あの時も無断で町に行っていたにもかかわらず前田所長のミスになさったではないですか?」
「そうだ。これには深い訳がある。今まで隠していたのだが、もうこんな姿になってしまったから
もういいだろう。お前だけに真実を言おう」
義男はこれで謎が解けると思うと有無を言わず「お願いします」と言った。
「実はこれは誰にも言ってないことだが、私には息子が一人いた」
義男は、初めて聞く真実に思わず驚いてしまった。
「当時は日中戦争の特需とかで景気が良く、そのおかげで俺の仕事も忙しく息子の遊び相手もほ
とんどすることができなかった。太平洋戦争が始まり、戦時色が濃くなってきた昭和19年に息子は
出兵されたのだった。
義男は、「息子さんが戦争に行ってしまったのですか。確かにこの頃は戦敗色が色濃くなってい
ましたから、一人でも多くの隊員が欲しかったのでしょう」
前田さんの顔が険しくなってきた。「宮城県気仙沼(けせんぬま)地区の入営式で俺に向かって、
『不肖(ふしょう)、前田義一。御国の為に命を賭けてでも戦い抜きます』との言葉を残して息子は
戦地へと向かっていった」
「それで、息子さんはどうなされたのですか?」
「息子は特攻隊として、中古の戦闘機に搭乗し敵国の飛行戦艦に直撃し【お国のため】に玉砕し
た。その一ヵ月後の8月15日、玉音(ぎょくおん)放送によって日本は敗戦を宣言し戦争が終わっ
た。半月後、俺のもとに一通の戦死報告書だけが届いた。遺骨も遺品も何も戻ってこなかった」
前田さんの目に涙がこぼれ始めた。
「可哀相に……息子さんは戦死して、前田さんの許には戻ってこなかったのですか」
「今でもあの戦争がなければ……と思っている。それから後、俺は海上保安庁に入り灯台の仕事
に就いた。そして暫く経ってお前が入ってきた。その事は俺にとっては福音(ふくいん)だった。お
前が戦争で死んだ息子にそっくりだったのだった。顔つきも体も、しかも名前までそっくりだった。
本当に俺の息子の生き写しに違いないと思い、ただただ無性に嬉しかった。だからこそ丁寧に指
導をしたし、ちょっとした失敗も眼をつぶってあげた」
前田さんの言葉にはっとした。これで今までの謎が解けたと義男は思った。しかし前田さんにこん
な過去があるとは夢にも思っていなかった。ただただ感嘆するばかりだ。
「たとえ血が繋がらなくても、この様にする事によって戦死した息子のせめてもの罪滅ぼしになっ
てくれたらいいと……少しでもお前が俺の行動に対して猜疑心を持っていたのは承知だった。け
ど俺にはそれを止める事ができなかったのだ。許してくれ」前田さんは土下座をし始めた。
「それが言いたいだけにわざわざ幽霊という形になって俺の元に来てくれたのですか?」
前田さんは「そうだ。渡辺が俺の事について悩んでいるのを天界で耳に挟み、天の神様が特別に
1時間だけ渡辺に逢う事を特別に許してくれたのだ」
「これで俺の疑問も解決できました。明日から夜もゆっくり寝られます」
「そう言われると嬉しい。…………悲しいけれどそろそろ別れが近づいてきた。渡辺さん元気でな。
俺はこれからもずっとずっと天界で見守っているからな…………」
義男は海に向かって去っていく前田さんに向かって、
「前田さーーん!!さようならーーー!!」と何度も叫んだ。
港に一陣の風が吹くと前田さんの【幽霊】は姿が見えなくなった。気がつくと義男は旅館の廊下に
立っていた。
(あれ??さっきまで港にいた筈だったけど??)義男は狐にでもつままれた感じになった。
ふと足元を見るとちゃんと靴を履いている。
(やはりあの時に港にいたのだ)と、自身の行動にやっと気がついた。
(とすると前田さんの幽霊に逢ったのも本当だったのか……)
義男は靴を玄関で脱ぐと自分の部屋に戻り、また再び床に着いた。
翌日、宿を出た渡辺さん一家は、駅のホームで帰りの列車を待っていた。
義男は信一郎に昨日【前田さん】と会った事をそれとなく伝えた。
信一郎は「そうでしたか。戦死した息子とそっくりだったら情が移ったのか……よく分かるよ」と語
ってくれた。
小さい町ながらも港があり、今日も近海魚のトロール船が次々と出港していく。多分これは日本
の典型的な港町の姿だろう。もちろん信一郎夫妻にとってははじめての町であった。派手さはない
がどこか懐かしみを与えてくれる町……信一郎夫妻も少しこの町を気に入ってくれたようだ。
「どうやら列車が駅に着いたみたいですね。それでは乗り込みましょう」
渡辺さん一家はたくさんのお土産を積んで南三陸の小さい駅から列車に乗り仙台へと向かった。
義男にとっては生涯でこの町を訪れるのはきっと最後に違いない。
今回の旅行で改めて灯台勤務が義男にとって本当にいい経験だったということが分かった。息子
にも灯台守の仕事も分かってもらえた様だし。また過去の灯台勤務の際に素晴らしい上司にめぐ
り逢えた事が何よりの幸せだったということも分かった。
義男は前田さんとの思い出はいつまでも忘れないだろう。もちろん【あの日の夜】に最後に逢った
事も。そして今日もこの空のずっと上で、前田さんが灯台守の姿で海の安全を見守っているに違い
ない…………。そう、前田さんは義男にとって真の【海を守る男】なのだから。
【完】
参考サイト:設標船(第六管区海上保安本部)http://www.kaiho.mlit.go.jp/06kanku/other/retro/seppyo/index.htm
取材協力:海上保安庁・船の科学館
参考資料:交通公社の全国時刻表 1963年10月号
※この作品は宮城県女川町を舞台にしていますが、作品中に登場する灯台は実在しません。
真夜中。ふと眼が覚めた義男は何処からか声がするのに気づいた。
「渡辺さん……」聞き覚えのある声がする。
耳を澄まさないと聞き取れないほどの小さい声だ。義男は
「誰かが俺を呼んでいる。こんな真夜中に……」
義男は浴衣の上から半纏を着るとその「姿なき声」の先を追った。
義男は宿を出ると静まり返った道路を進んだ。
小さい町なのですぐに港にたどり着いた。港からは漁船の明かりや昼に立ち寄ったあの灯台の
明かりが見える。
「渡辺さん」すぐ後ろでさっきの声がする。
振り向くとそこは作業着を着た50歳くらいの人がいた。よく見ると以前お世話になった前田さん
だった。しかもどういう訳か40年も前はじめて出逢った時と全く同じ場所、全く同じ格好で……
これは偶然なのだろうか?それとも神のいたずらなのだろうか?
義男は嬉しさのあまり涙がこぼれそうになった。
「お久しぶりです」と言い握手をしようとしたが、なぜかできない。なぜなら義男の手が前田さんの
手をすり抜けてしまう。よく見たら足が透き通っている。そうか。これは前田さんの【幽霊】なのだ。
けれどなぜ今頃になってこの世に現れたのだろうか?
(とすると前田さんはもうこの世からお亡くなりになっていたのか……)
と義男は感じた。「幽霊」の前田さんは義男に向かってこう語り始めた。
「北海道の灯台に勤務して以降、体の調子が悪くなり3年で退職した。その後病に倒れ20年前に
この世を去った」
義男は「そうでしたか。それはそれは大変な人生でした。ぜひ生前にお会いしたかったです」と当
たり障りの無い返事をした。
「俺も同じだ。手塩にかけて育てたお前の姿を見たかったが、生きてるうちにはできなかった。今
日こんな形でも会えたのが救いだ」前田さんは小さく笑みを浮かべた。
「本当です。俺も常日頃前田さんの消息はずっと気になっていたのですから」
「そうみたいだな。よく存じておる。なぜなら俺は天界に誘われた当時から宮城県の辺りにいて、
空から海の安全を見守っていたのだから」
義男は「なるほど。亡くなってもなお、ふるさとの海をずっとお守りしていたのですか……まさに灯台
守の鑑(かがみ)ですな」と前田さんに向かって手を合わせた。
「そうだ。俺が天界に来てから大きい海難事故ひとつも起きなかったのは俺のおかげといっても
過言ではない」
義男は、今が長年の謎が解けるチャンスと思いすかさず前田さんに尋ねてみた。
「話は変わりますが、なぜ俺に色々指導したのですか。失敗してもほとんど怒らなかったですし、
あの時も無断で町に行っていたにもかかわらず前田所長のミスになさったではないですか?」
「そうだ。これには深い訳がある。今まで隠していたのだが、もうこんな姿になってしまったから
もういいだろう。お前だけに真実を言おう」
義男はこれで謎が解けると思うと有無を言わず「お願いします」と言った。
「実はこれは誰にも言ってないことだが、私には息子が一人いた」
義男は、初めて聞く真実に思わず驚いてしまった。
「当時は日中戦争の特需とかで景気が良く、そのおかげで俺の仕事も忙しく息子の遊び相手もほ
とんどすることができなかった。太平洋戦争が始まり、戦時色が濃くなってきた昭和19年に息子は
出兵されたのだった。
義男は、「息子さんが戦争に行ってしまったのですか。確かにこの頃は戦敗色が色濃くなってい
ましたから、一人でも多くの隊員が欲しかったのでしょう」
前田さんの顔が険しくなってきた。「宮城県気仙沼(けせんぬま)地区の入営式で俺に向かって、
『不肖(ふしょう)、前田義一。御国の為に命を賭けてでも戦い抜きます』との言葉を残して息子は
戦地へと向かっていった」
「それで、息子さんはどうなされたのですか?」
「息子は特攻隊として、中古の戦闘機に搭乗し敵国の飛行戦艦に直撃し【お国のため】に玉砕し
た。その一ヵ月後の8月15日、玉音(ぎょくおん)放送によって日本は敗戦を宣言し戦争が終わっ
た。半月後、俺のもとに一通の戦死報告書だけが届いた。遺骨も遺品も何も戻ってこなかった」
前田さんの目に涙がこぼれ始めた。
「可哀相に……息子さんは戦死して、前田さんの許には戻ってこなかったのですか」
「今でもあの戦争がなければ……と思っている。それから後、俺は海上保安庁に入り灯台の仕事
に就いた。そして暫く経ってお前が入ってきた。その事は俺にとっては福音(ふくいん)だった。お
前が戦争で死んだ息子にそっくりだったのだった。顔つきも体も、しかも名前までそっくりだった。
本当に俺の息子の生き写しに違いないと思い、ただただ無性に嬉しかった。だからこそ丁寧に指
導をしたし、ちょっとした失敗も眼をつぶってあげた」
前田さんの言葉にはっとした。これで今までの謎が解けたと義男は思った。しかし前田さんにこん
な過去があるとは夢にも思っていなかった。ただただ感嘆するばかりだ。
「たとえ血が繋がらなくても、この様にする事によって戦死した息子のせめてもの罪滅ぼしになっ
てくれたらいいと……少しでもお前が俺の行動に対して猜疑心を持っていたのは承知だった。け
ど俺にはそれを止める事ができなかったのだ。許してくれ」前田さんは土下座をし始めた。
「それが言いたいだけにわざわざ幽霊という形になって俺の元に来てくれたのですか?」
前田さんは「そうだ。渡辺が俺の事について悩んでいるのを天界で耳に挟み、天の神様が特別に
1時間だけ渡辺に逢う事を特別に許してくれたのだ」
「これで俺の疑問も解決できました。明日から夜もゆっくり寝られます」
「そう言われると嬉しい。…………悲しいけれどそろそろ別れが近づいてきた。渡辺さん元気でな。
俺はこれからもずっとずっと天界で見守っているからな…………」
義男は海に向かって去っていく前田さんに向かって、
「前田さーーん!!さようならーーー!!」と何度も叫んだ。
港に一陣の風が吹くと前田さんの【幽霊】は姿が見えなくなった。気がつくと義男は旅館の廊下に
立っていた。
(あれ??さっきまで港にいた筈だったけど??)義男は狐にでもつままれた感じになった。
ふと足元を見るとちゃんと靴を履いている。
(やはりあの時に港にいたのだ)と、自身の行動にやっと気がついた。
(とすると前田さんの幽霊に逢ったのも本当だったのか……)
義男は靴を玄関で脱ぐと自分の部屋に戻り、また再び床に着いた。
翌日、宿を出た渡辺さん一家は、駅のホームで帰りの列車を待っていた。
義男は信一郎に昨日【前田さん】と会った事をそれとなく伝えた。
信一郎は「そうでしたか。戦死した息子とそっくりだったら情が移ったのか……よく分かるよ」と語
ってくれた。
小さい町ながらも港があり、今日も近海魚のトロール船が次々と出港していく。多分これは日本
の典型的な港町の姿だろう。もちろん信一郎夫妻にとってははじめての町であった。派手さはない
がどこか懐かしみを与えてくれる町……信一郎夫妻も少しこの町を気に入ってくれたようだ。
「どうやら列車が駅に着いたみたいですね。それでは乗り込みましょう」
渡辺さん一家はたくさんのお土産を積んで南三陸の小さい駅から列車に乗り仙台へと向かった。
義男にとっては生涯でこの町を訪れるのはきっと最後に違いない。
今回の旅行で改めて灯台勤務が義男にとって本当にいい経験だったということが分かった。息子
にも灯台守の仕事も分かってもらえた様だし。また過去の灯台勤務の際に素晴らしい上司にめぐ
り逢えた事が何よりの幸せだったということも分かった。
義男は前田さんとの思い出はいつまでも忘れないだろう。もちろん【あの日の夜】に最後に逢った
事も。そして今日もこの空のずっと上で、前田さんが灯台守の姿で海の安全を見守っているに違い
ない…………。そう、前田さんは義男にとって真の【海を守る男】なのだから。
【完】
参考サイト:設標船(第六管区海上保安本部)http://www.kaiho.mlit.go.jp/06kanku/other/retro/seppyo/index.htm
取材協力:海上保安庁・船の科学館
参考資料:交通公社の全国時刻表 1963年10月号
※この作品は宮城県女川町を舞台にしていますが、作品中に登場する灯台は実在しません。