そのとき放送が流れた。
「外の天候が荒れています。お客様方はなるべく外出しないようにしてください」
そういえば嵐が来ると聞いていたような気がする。
サンチョは特に放送は気に留めず、頃合を見て、参加者たちに声をかけた。
「参加者の皆様には特別に昼食を用意して差し上げています。お腹の空いた方から、アイスクリームが入る余裕を残して、お食事をとってください」
サミットの他の客人よりも少し遅めの、昼食というよりはおやつのような時間だが、各々が食事の量をコントロールできるように、様々なパンとチーズ、それとサラダのバイキングだった。
アカツキは紅茶を飲みながら、アリーがどこにいるかが気になった。
よもやこの嵐が来ようとしている環境で外には出ないだろうと思っているが……。
そのときだった。
風がごうっと吹き荒れて、ひとりの影が飛び込んできた。ぼたぼたとレインコートから雫が落ちる。外は大雨のようだ。
「どうしましたか?」
サンチョが声をかけると、ホテルの従業員らしき男はレインコートを脱ぎながら言った。
「船がこの嵐じゃあ運航できないんだよ。サミットが終わる日に帰られるかわからない」
「え、そんな……」
サンチョは沈黙する。だってこのホテルには、三日分の食事しか用意していないのだ。これだけの人数の食料を確保するとなると、小出しにしたとしてもあと二日で終わってしまう。
近くで話を聞いていたのはアカツキひとりだけ。そしてサンチョの心の中が読み取れたのもアカツキだけだった。
困ったような顔をするサンチョと従業員に笑いかけた。
「注意を別のものにそらすというのはどうでしょうか」
「どういうことだね?」
「例えばそうだな……夜は演奏会にして、豪華な食事でなく、先程のパンバイキング程度の軽食にしてみるとか。それなら数日は保つはずです」
「だけど演奏会と言ってもだね、このサミットには音楽隊がいないんだよ」
従業員の説明にアカツキは困ったような顔をする。そうして思いついたかのように、こう言ってみた。
「有志の音楽隊による演奏会、じゃあ駄目ですか?」
「有志?」
「そうです。一朝一夕でどこまでできるかはわからないけど……」
サンチョと従業員が顔を見合わせる。
そしてGOサインが出た。
アカツキは何食わぬ顔でにこにこしながら、綾香たちのところへ行った。
「アヤー、今サンチョさんに聞いたんだけど、このあとは音楽隊による演奏会だったんだって。だけどこの嵐で音楽隊が海を渡れなかったらしくってね、有志でやってみないかって話なんだけど、どう?」
さて、彼女たちはどう反応するだろうか。
綾香は館内放送の内容を話半分に聞いていた。どうせ外出する当てもないし、ここにいれば風雨も問題ないからと思ったからだ。隣にいる麻美さんや照子さんたちとたわいのない話をして、アイスが固まるのを待っていた。30分後、固まったアイスの掻き混ぜを終え、トッピングの残りである餡をスプーンですくって食べていると、アカツキがあたしの所にやってきた。
アカツキは、参加者の心に残るイベントの一つとして、音楽隊を呼んでいたのだが、嵐で来られなくなったので、代わりに有志としてやってみないか、と提案して来た。
これまた面白そうなイベントが転がり込んできたものだ。
あたしは、学校では吹奏楽なんかの部活には入っていなかったが、ある程度の楽器は演奏できるし、簡単のならば、譜面も読める。そりゃ、本業の音楽隊には歯が立たないであろうが、少し頑張ればココの会場内で演奏のようなものは出来なくも無い。
あたしはアカツキに、
「何人か音楽の演奏が出来そうな人と練習して見れば、形になるようなものが出来るんじゃないか?」
と答えると、アカツキは更に顔色が明るくなった。
「楽器はホールのほうに置いてあるってさ。アヤはピアノ弾ける?」
食堂のある方角へと綾香といっしょに歩きながら、途中で麻美にも声をかけた。
そうして数名の、音楽ができそうな客たちも誘ってみる。
「照子さんもいっしょに音楽隊やりませんか?」
携帯で今しがた連絡をとっていた照子にももちろん声をかけてみた。
ピアノか……。小学校の時に音楽室のピアノで簡単な曲を弾いて遊んだ事がある。
あたしはアカツキに、
「少しだけなら……」
と答えた。譜面にあわせて鍵盤を弾けばいいいのだら、少し練習すれば……と安易な気持ちが頭の中にあった。
とりあえずホールに行けばピアノはあるはずだから、とりあえず向かった。
私は、通路でアヤさんに声をかけられた。なにしろ、これから有志で音楽隊を作って、即行の演奏会を開くらしい。
全員素人とはいっても、楽器を演奏する事がそれほど無かったので、自信はあまりない。おそらくここにいる人のほとんどはそうだろう。
突然チャッピーが自慢ありげに、
「なんだ、そんな事で心配ているのか?」
私が不思議に思うと、
「ボクの力で、ここにある楽器たちに相談して見るよ!」
アイスを作っている間に忘れてしまっていた。チャッピーは神の啓示を受けているハムスターで、あらゆる物と話が出来る能力を持っていたのだ。
おそらく一時期だけ普通の人でも演奏できるように手立てを打ってくれるはずだ。
私は僅かな希望を胸に抱いていると、チャッピーは私の肩から飛び降り、一足先にホールへと走り去って行った。
ホールに即席音楽隊を集めたアカツキは、楽器が仕舞ってある物置から色々道具を引っ張りだした。
太鼓、アコーディオン、トライアングル、ホルン、コントラバス。手軽な楽器から、少々技術が必要そうな楽器までひととおり揃っている。
「ちゃんと調律されているかな……」
ピアノの鍵盤の音を鳴らしてみる。自分の絶対音感と比べてみたが、音はそんなにずれていない。
「じゃあ楽器を決めてから、演奏する内容を決めようか」
自分のような優柔不断な男が指揮って大丈夫だろうかと思いながら、アカツキはウクレレを手にとった。
「これにしようかな……」
なんとなく勘で選んでみた。特に得意な楽器というわけでもなかったけれど、アイスクリームのアドバイスをくれた男の子から、
「照子さんもいっしょに音楽隊やりませんか?」
と、声をかけられたことがきっかけだった。先程小耳に挟んだ企画で、それに参加しないかというお誘いらしい。
「ん……。ちょっとこの後用事があるから、それがすぐに済んだらね。わたし、鍵盤楽器や打楽器ならなんとかなるよ。って言ってもバリバリ弾けるわけじゃないけど」
照子の演奏レベルは、鍵盤楽器なら簡単なコード弾き程度だ。リズム感にはそれなりの自信があるので打楽器もアドリブがきくだろう。
「飛び入りでも参加できそうな曲と楽器なら、いつでもOKだよ」
せっかくのバカンスだ。どうせなら楽しみたいものだと照子は笑った。
ウクレレの弦が調節してあるかを、軽くポロンポロンと鳴らしてみて確かめる。こちらも大きくは狂っていないみたいだった。
「じゃあ、ピアノはアヤに任せていい? 打楽器は照子さんに。僕はウクレレにするから、麻美ちゃんはなんの楽器にする?」
アカツキは他にも集まった人間がどの楽器を手にとっているか確かめたあと、ピアノ、打楽器、弦楽器などがどれもまんべんなく出てきそうで、かつ有名で、簡単そうな曲を考えた。即席音楽隊とはいえ、どうせならばみんな活躍できるものがいい。
「サンチョさん、リチャード・クレイダーマンの『渚のアデリーヌ』の楽譜ってありますか?」
どうやらピアノの楽譜だけはあるみたいだった。
それを綾香に渡して、周囲に指示を出した。
「彼女、アヤがメインのメロディの部分をやってくれます。照子さんがリズムをとってくれるので、それにあわせて思い思いに演奏してください」
「ちょっと、いい加減じゃない? 指揮者もいない素人演奏会なんて」
バイオリンを手にした、ちょっと音楽のできそうな女性が心配したように言った。たしかに主旋律とリズムだけで全部の音がハーモニーをつくるのは難しい。
ふと、まだ楽器が決まっていない麻美に目を向けた。四拍子か二拍子で振ってくれればいい、とジェスチャで見せながら、麻美に聞いてみる。
「もし、君がよければだけれども……麻美ちゃん、指揮者やってみる気、ない?」
アカツキさんに頼まれてしまった。
指揮者ならそれほど難しくないし、一つやってみることにした。
「ええ、わたしでよかったら」
と報せた。
一方、先に楽器庫に向かっていたチャッピーはというと、既にいくつかの楽器と話し合いがついたみたいで、
「マミちゃん、ここにある楽器は、どれも結構、人間に好意的だったよ。それで今回の件について相談して見たところ、ある程度なら演奏の補助をしてくれるよ」
との事。
ピアノの上にどっかりと乗っているチャッピーを見つけると、
「ねえ、あなたにもう一願張りして欲しいの。実は、今回即興音楽隊で指揮をする事になったけど、あなたにもそれぞれの楽器に指図してもらいたいの……」
チャッピーはぶつくさ言いながらも了解してくれた。物と話ができる事は素晴らしい事で、その能力が乏しい私にとってはチャッピーに憧れと尊敬の意を持っている。
あたしはピアノを担当する事になった。たとえ小規模であれ、音楽隊の主旋律を任された。
(ここでうまく発表できたらあたしの評価はすごく良くなるな)
と考え始めた。
アカツキさんから一枚の楽譜をもらった。
「渚のアデリーヌ、か……。聴いた事があるかも知れない」
譜面をざっと見た限りでは生易しい曲ではないが、演奏時間がそう長くないから、何とかなるかも知れない。
「そうだよ、このピアノは日本製だから。僕がこのピアノと話し合って、今回の演奏時にいくらか手伝ってくれるって」
良く見るとピアノの上にマミちゃんのハムスターがいるのだ。普通のハムスターではないみたいなので、きっと何か手助けをしてくれるのか、と淡い期待も持ち始めた。
あたしは軽く鍵盤を叩く。程度が良いのか、思ったよりもいい音が鳴る。
(何かいい感触だな)と感じた。
夜が明けた。嵐は夜のうちに過ぎたため、食糧難の問題は回避できた。
サンチョにお礼を言われたし、音楽隊の人たちも楽しそうに練習していたため、せっかくだから翌日の昼、演奏会を開こうという運びになった。