時代は21世紀に突入した。相変わらず景気は良くないが、各家庭にも安価なパソコンが普
及し始めた。そして何といっても携帯電話が一人一台に迫る勢いで普及したのであった。
小野の子供時代では携帯はSFの世界でしか登場しない憧れの商品であった。当時の人
はまさかこれだけ浸透するとは夢にも思わなかっただろう。
松本が交通事故を起こし、小野が人事係に降格されたが、家族の支えと友人の力で克服
した。もっとも不景気の時代に誰も解雇されず安定に生活できた事が何よりの幸せだと思
っている。
平成15年。
翌年は50歳になる。人生80年といわれている今、大きな節目を迎えるのだ。
3人は携帯電話も持っていて、お互いの近況や一緒に飲む計画とかをメールでやり取りし
始めていた。
来年50歳になる記念として3家族集まってどこかに行こうかという計画を練っていたのだ。
長谷川の〔いっそのこと俺たちの生まれた町に行くのはどうだ〕のメールに二人は共感し
て即座にその案に決めた。
平成16年、早春。
3人は家族を連れて上野駅に集まった。小野一家は夫妻と中学生の男女の4人。松本一
家は夫妻と小学生の女の子。長谷川一家は夫妻と中学生の男の子。合計10人集まった。
それぞれ夫婦同士では一年に一回位会っていたが子供まで集まったのは初めてだ。もち
ろん3家族合同の旅行も初めてだ。
3家族は新幹線に乗り込んだ。
長野行きの北陸新幹線【あさま号】は静かに上野駅を出発した。
長谷川や小野が上京した頃は電車の特急しかなかった。それが今では新幹線ができ、長
野駅まで一時間半で着いてしまう。本当に技術の進歩は目覚しい。小野たちが高齢になる頃
にはもっと進歩するに違いない。話題には出なかったがそれそれの家族ごとに未来の鉄道に
ついて想像していたらしい。
あっという間に長野に着き、松本が一時期就職していた私鉄(長野電鉄)に乗り換えた。
昔と違い長野駅のホームはビルの地下にあり、善光寺の辺りまで電車は地下を走るよう
になっていた。3人はなじみの深い鉄道が様変わりしたのに驚いた。尤も家族は新鮮な目で
見ていたが。
昔とあまり変わらないスタイルの電車に揺られる事数十分。10人は小さい駅に着くと、電車
から降りた。
駅舎は昔と変わらないが、既に無人駅となっていた。駅から出ると3人は一斉に、
「ここがお父さんが小さい頃に暮らしていた町なんだ。今と違って畑ばかりののどかだった」
としみじみと語った。
各人が懐かしみながら駅前通りを歩いた。県庁所在地の長野市なのだが、過疎化が急速
に進みほとんど店も無く寂れた風情で、昔とそれほど変わっていない。
駅を降り10分後、そこそこ大きい集落にたどり着いた。
3人たちの生まれた地区なのだが、実は3人の生まれた家はもうない。本家が跡を継がず
に長野や東京に出たため、土地も他の名義に変わっていたのだ。もちろん兄弟は各地に引
っ越したが今でも健在である。
家はなくなってしまったが、思い出は3人の心の中に残っている。
3家族は一軒の駄菓子屋に着いた。
3人は(今でも残っていた……当時と同じつくりで……)何とも云えない懐かしい雰囲気に
思わず涙がこぼれた。
店に入っても当時とあまり変わっていない。もちろん経営者は子の代になっていたが。
長谷川は、「子供のときによく来てました」と店主に言うと、店主も喜んでくれた。店主の
話では、今でもたまに小さい時分にこの店で買い物したという大人が来ると言う。そして皆懐
かしい頃の思いに浸って帰るそうだ。
誰でもいつかは帰る場所がある。小野・松本・長谷川にとってはまさにこの駄菓子屋が
「いつか帰る所」だったのだ。
駄菓子屋だけあって子供たちは皆新鮮な眼差しで商品を見て買っている。昔は安いだ
けであまりおいしくなかったものだが、平成になって素朴さや懐かしさから駄菓子が見直さ
れている。
長谷川も会社から近い日暮里(にっぽり)の駄菓子問屋で、たまに駄菓子を買っている。
やはり昔からの味というのは舌が覚えているみたいだ。
この店では親も子も皆童心に帰っていた。
店主に挨拶すると店を後にした。
3家族は更に畑道を歩いた。かつての遊び場だった学校裏の山に向かおうとしたのだが
様子が変わっていた。学校は廃校となり、その付近に国道ができていた。山を切り開いて
道路を作り、新しい店が沢山建っている。ほとんどが全国チェーンを展開している名の知れ
た店だ。これには3人は落胆した。
「あれだけたくさんあった森は、開発によって無くなってしまったのか……」
しかし時代の流れなので仕方がない。国道開通によって住民の生活が良くなったのも事
実だし……。
子供たちに、
「ここには昔は森や小川があり、毎日ここで鬼ごっこしたり魚を取ったりして一日中遊んでい
たんだよ」と当時を語った。子供たちは半分納得し、当時を思い起こしている子もいた。
3家族は引き返し、駅に向かった。3人にとっては多分生まれた町を訪れるのは最後だろ
うと思いながら……。
長野駅に着いたのは昼を過ぎていた。駅のレストランで食事をして善光寺を参拝しお土産
を買って長野の町を後にした。
上野駅に着いたのは夜6時であった。今は長野も日帰りで行ける時代になったのだ。
「今日はお父さんのふるさとに行って楽しかった」と子供たちから率直な感想が聞けた。
それだけでも今回の旅行は成功したといえる。
それぞれの家族は上野駅で別れた。今回の旅で子供たちとの交流も生まれたし、とても
有意義な一日だった。
【友人は人生最大の宝物である】と述べる人もいるが3人にとって正にその通りだ。3人それ
ぞれ今のところ「いい人生だった」と思っている。
それは、なりよりも今まで曲ったり折れたりしながらも友人の力を得て何とか人生を送ってい
るからだ。
小野・松本・長谷川はこれからの未来も、確固たる友情で人生どんな困難も切り開くに違
いないであろう。
【完】
参考資料:1970年大百科 (宝島社)
日本 〜その姿と心〜 (学生社)
注:小説中の出来事は事実と相違している箇所があります。
及し始めた。そして何といっても携帯電話が一人一台に迫る勢いで普及したのであった。
小野の子供時代では携帯はSFの世界でしか登場しない憧れの商品であった。当時の人
はまさかこれだけ浸透するとは夢にも思わなかっただろう。
松本が交通事故を起こし、小野が人事係に降格されたが、家族の支えと友人の力で克服
した。もっとも不景気の時代に誰も解雇されず安定に生活できた事が何よりの幸せだと思
っている。
平成15年。
翌年は50歳になる。人生80年といわれている今、大きな節目を迎えるのだ。
3人は携帯電話も持っていて、お互いの近況や一緒に飲む計画とかをメールでやり取りし
始めていた。
来年50歳になる記念として3家族集まってどこかに行こうかという計画を練っていたのだ。
長谷川の〔いっそのこと俺たちの生まれた町に行くのはどうだ〕のメールに二人は共感し
て即座にその案に決めた。
平成16年、早春。
3人は家族を連れて上野駅に集まった。小野一家は夫妻と中学生の男女の4人。松本一
家は夫妻と小学生の女の子。長谷川一家は夫妻と中学生の男の子。合計10人集まった。
それぞれ夫婦同士では一年に一回位会っていたが子供まで集まったのは初めてだ。もち
ろん3家族合同の旅行も初めてだ。
3家族は新幹線に乗り込んだ。
長野行きの北陸新幹線【あさま号】は静かに上野駅を出発した。
長谷川や小野が上京した頃は電車の特急しかなかった。それが今では新幹線ができ、長
野駅まで一時間半で着いてしまう。本当に技術の進歩は目覚しい。小野たちが高齢になる頃
にはもっと進歩するに違いない。話題には出なかったがそれそれの家族ごとに未来の鉄道に
ついて想像していたらしい。
あっという間に長野に着き、松本が一時期就職していた私鉄(長野電鉄)に乗り換えた。
昔と違い長野駅のホームはビルの地下にあり、善光寺の辺りまで電車は地下を走るよう
になっていた。3人はなじみの深い鉄道が様変わりしたのに驚いた。尤も家族は新鮮な目で
見ていたが。
昔とあまり変わらないスタイルの電車に揺られる事数十分。10人は小さい駅に着くと、電車
から降りた。
駅舎は昔と変わらないが、既に無人駅となっていた。駅から出ると3人は一斉に、
「ここがお父さんが小さい頃に暮らしていた町なんだ。今と違って畑ばかりののどかだった」
としみじみと語った。
各人が懐かしみながら駅前通りを歩いた。県庁所在地の長野市なのだが、過疎化が急速
に進みほとんど店も無く寂れた風情で、昔とそれほど変わっていない。
駅を降り10分後、そこそこ大きい集落にたどり着いた。
3人たちの生まれた地区なのだが、実は3人の生まれた家はもうない。本家が跡を継がず
に長野や東京に出たため、土地も他の名義に変わっていたのだ。もちろん兄弟は各地に引
っ越したが今でも健在である。
家はなくなってしまったが、思い出は3人の心の中に残っている。
3家族は一軒の駄菓子屋に着いた。
3人は(今でも残っていた……当時と同じつくりで……)何とも云えない懐かしい雰囲気に
思わず涙がこぼれた。
店に入っても当時とあまり変わっていない。もちろん経営者は子の代になっていたが。
長谷川は、「子供のときによく来てました」と店主に言うと、店主も喜んでくれた。店主の
話では、今でもたまに小さい時分にこの店で買い物したという大人が来ると言う。そして皆懐
かしい頃の思いに浸って帰るそうだ。
誰でもいつかは帰る場所がある。小野・松本・長谷川にとってはまさにこの駄菓子屋が
「いつか帰る所」だったのだ。
駄菓子屋だけあって子供たちは皆新鮮な眼差しで商品を見て買っている。昔は安いだ
けであまりおいしくなかったものだが、平成になって素朴さや懐かしさから駄菓子が見直さ
れている。
長谷川も会社から近い日暮里(にっぽり)の駄菓子問屋で、たまに駄菓子を買っている。
やはり昔からの味というのは舌が覚えているみたいだ。
この店では親も子も皆童心に帰っていた。
店主に挨拶すると店を後にした。
3家族は更に畑道を歩いた。かつての遊び場だった学校裏の山に向かおうとしたのだが
様子が変わっていた。学校は廃校となり、その付近に国道ができていた。山を切り開いて
道路を作り、新しい店が沢山建っている。ほとんどが全国チェーンを展開している名の知れ
た店だ。これには3人は落胆した。
「あれだけたくさんあった森は、開発によって無くなってしまったのか……」
しかし時代の流れなので仕方がない。国道開通によって住民の生活が良くなったのも事
実だし……。
子供たちに、
「ここには昔は森や小川があり、毎日ここで鬼ごっこしたり魚を取ったりして一日中遊んでい
たんだよ」と当時を語った。子供たちは半分納得し、当時を思い起こしている子もいた。
3家族は引き返し、駅に向かった。3人にとっては多分生まれた町を訪れるのは最後だろ
うと思いながら……。
長野駅に着いたのは昼を過ぎていた。駅のレストランで食事をして善光寺を参拝しお土産
を買って長野の町を後にした。
上野駅に着いたのは夜6時であった。今は長野も日帰りで行ける時代になったのだ。
「今日はお父さんのふるさとに行って楽しかった」と子供たちから率直な感想が聞けた。
それだけでも今回の旅行は成功したといえる。
それぞれの家族は上野駅で別れた。今回の旅で子供たちとの交流も生まれたし、とても
有意義な一日だった。
【友人は人生最大の宝物である】と述べる人もいるが3人にとって正にその通りだ。3人それ
ぞれ今のところ「いい人生だった」と思っている。
それは、なりよりも今まで曲ったり折れたりしながらも友人の力を得て何とか人生を送ってい
るからだ。
小野・松本・長谷川はこれからの未来も、確固たる友情で人生どんな困難も切り開くに違
いないであろう。
【完】
参考資料:1970年大百科 (宝島社)
日本 〜その姿と心〜 (学生社)
注:小説中の出来事は事実と相違している箇所があります。