島崎はあれこれ考えながらも不安と期待を胸にして【思い出横丁】へと向かった。午後5時前
なので【思い出横丁】の人通りは少ない。沢山ある飲食店の中から【夕焼け酒場】を探すのは
至難の業だ。ひょっとしてこの時代に迷い込んだ時間だけ存在していて、最初から店自体架
空のもので、前あったところから消えてなくなっていたらどうしようかと不安になった。隅から隅
まで歩き回って、やっと【夕焼け酒場】を見つけた。どうやら当時から本当に存在していたのだ
った。ちゃんと看板も[営業中]になっているし。
島崎は不安と期待がごちゃ混ぜになっていながらも、藁にもすがる思いで
(どうか元の時代に戻れますように……)と神に祈りながら、硬そうな木でできた【夕焼け酒
場】の扉を恐る恐る開けた……
「あら、お客さん裏口から入ってきたよ。たまに居るんだよね裏から入る人が。ま、店としては
どこから入ってきても客は客だからいいけどさ」
数日前見た年嵩40歳前後のママが笑っている。店内にいた数人の客もママにつられて笑
みがこぼれている。島崎は思わずバツの悪い素振りをしながらカウンターに座った。何気なく
携帯電話を開くと電波も普通どおりに入っている。
(現在に戻ったのだ!!)島崎は一人感動した。周りの客は変な目で見ているけどとりあえず
昭和34年から無事に生きて戻ってきた事には違いない。けど、
(今まで僕が経験したことは果たして真実なのか……)と心配になってきた。
財布の紙幣は減っている。ポケットに昔の小銭が入っていて、反対側のポケットには駄菓
子屋で買っためんこが入っている。携帯のカメラで撮影した写真も昨日まで撮った昭和34年
の画像がカラーでそのまま残っている。
(……やはりあれは本当の出来事だったのだ!)島崎は思った。
この現象はやはり数人の人が体験したらしく、理由ははっきりしないが、この店の持つ不思
議な魔力が昭和30年代の生活に特に強い憧れを持つ人の中で更に選ばれた人が時の歪の
中から昭和34年という時間に誘導させたのか?そしてその時間の歪みが偶然この店の裏口
と繋がっていたという事か?後になって分かったのだが昭和34年にはこの百貨店の辺りまで
思い出横丁は存在していたと言う事なので理論上では可能だ。
あらゆる手を使い彼が体験した出来事を科学的に解明しようとしたが、やはり野暮な事であ
ると分かった。この事はそっと心の中にしまっておこう、と島崎は判断した。
島崎は何も飲まず食わずで酒場から出るのも心苦しいので、財布の中に僅かに残った金で
コーラを注文して一気に飲み干すと【思い出酒場】を後にし、【面影通り繁栄会】から出た。
新宿駅は今日も多くの通勤客で混んでいる。今日まで時の旅人だった島崎も明日からまた
一企業戦士に戻る。もちろん仕事は厳しく辛いのだが、〔あの時〕駄菓子屋で買っためんこを
心の支えとして毎日身に付けている。
そう、いつかまた古き良き本当の昭和34年に行けるかもしれないから……。
【完】
参考書籍 西岸良平 「夕焼けの詩」 小学館
正井泰夫 「昭和30年代 懐かしの東京」 平凡社
井上廣和・坂 正博・楠井利彦 「路面電車カタログ」 山と渓谷社
参考サイト 新宿再発見コラム http://www.tokyo-cci.or.jp/shinjuku/kanko/koramu.html
取材協力 歌舞伎町商店街振興組合
※ 作品中に登場した〔トリス〕は、潟Tントリーの登録商標です。http://www.suntory.co.jp/whisky/torys/