昭和ノスタルジー小説    夕焼け酒場  
 「あーあ、また営業課の課長に叱られちゃったな!こう毎日毎日怒られてばかりだと、会社に行く
のも嫌になっちゃうな!」
 島崎淳也、25歳。背が高く細身で、顔も今風でさわやかな感じだ。島崎は高校卒業後実家のある
静岡から上京し、中堅の企業に勤めている。
 彼はこんな日には、【隠れ家】に足が自然と動く。その場所は新宿駅前にある百貨店の一角に最
近オープンした昭和30年代をコンセプトとして作られた総合娯楽施設【面影通り繁栄会】。
 施設内には巨額の金を費やして昭和30年代の商店街の雰囲気を忠実に再現している。狭いな
がらも飲食店・衣料店・玩具店・雑貨店などが整然と立ち並んでいる。
 島崎は営業の途中新宿駅に立ち寄った際偶然ここを発見し、自分が生まれていない時代では
あるが、独特のノスタルジックな雰囲気が気に入り、それ以来すっかり虜になってしまった。
「おお、今日はもう沢山の人でにぎわっているな……。早速両替をして、と」
 ここでは昭和30年代の雰囲気をリアルに実感させる目的で、施設内での飲食や買い物は全て
当時の紙幣硬貨を流通させている。そのため、入り口には両替所が設置してある。
 彼が立ち寄るのは決まって【一杯横丁】という飲み屋街のブース。今日は奮発して、
「1万円両替お願いします」
と島崎が財布から1万円札を出すと、両替所の係員は当時流通していた1万円札を手渡した。
 いつもは【居酒屋おふくろ】【大衆割烹すみれ】あたりで一杯飲(や)るのだが、今日は金回り
が良いと言うことで趣向を変えて【夕焼け酒場】というスナックにした。この店は先月新規開店し
たばかりで、島崎にとって初めてだ。
 店内は昭和30年代の場末のスナックを意識したつくりで、薄暗いカウンター7席だけのシックな
内装、年代を感じさせる丸椅子、壁には風景画の油絵が飾っている。
 島崎の予想通り、古き良き時代を髣髴(ほうふつ)する洋風酒場だった。初めて入った店なが
ら雰囲気が気に入った。
「今日はトリスの水割りと鶏のから揚げがお勧めよ」
 年嵩40歳前後のママさんが客に勧めている。島崎は少し前からTVや新聞でトリスウイスキー
が復活したと言うニュースを聞いていて、さらにトリスが昭和30〜40年代に良く飲まれていた大
衆酒と言う事を何かの本で読んだことがあった。しかし本物は飲んだ事が無かったので、良い機
会だと思い注文してみた。
「うまい!」
 久々にうまい酒を飲んだ島崎は調子に乗り始めた。
「ママさん、お代わり!」
 気が付くとトリスの水割り5杯とつまみ6品を平らげ、すっかり出来上がっていたのだ。
「ママさんお愛想!」
 ママさんは島崎が飲食した代金をそろばんで計算すると、
「締めて500円になります」と言い、勘定書を島崎に渡した。
(思ったより安いな……ひょっとして開店セールなのかな?)
と思いつつも島崎は両替したばかりの100円札を5枚渡した。
 だいぶ酔っている為、ついうっかり出口を間違って裏口から店を出てしまった。それが運命の
始まりだとは予想すら出来なかった。


 新宿駅前にあるビルの一階に【面影通り繁栄会】がある為、【夕焼け酒場】の裏口は[思い出
横丁]通称[小便横丁]と言われる新宿駅西口の飲み屋街に繋がっていた。すっかり日が暮れて
暗くなっている。
 島崎は酔いが覚めたのかふと我に帰り、
「……そういえば取引先からのメールを確認していなかったな……」
と言いながら携帯電話を開いた。
---圏外--- 
(あれ、おかしいな。いつもはこの辺りでも電波は届くはずなのに……)島崎は疑問に思った。
けどその疑問も横丁を歩くにつれ懐疑に変わり、数分後には絶望に変わるのであった。
 普段良く通る横丁なのに何となく雰囲気がおかしい。カレーハウスがある場所が小料理屋に
なっていたり、一杯飲み屋のガラス戸越しに見える、カウンターに置いてあるはずのTVがなく、
代わりにあるのが古風なラジオだったり……
 横丁から出て新宿駅前通りに出るや否や、島崎は唖然としてしまった。
 「駅前にあるはずのビルがない!」
変わっているのは町並みだけではない。行きかう車も少なく古いタイプばかり。駅前をとっくの
昔に廃止したはずの路面電車が引っ切り無しに走っている。もちろん派手に輝くネオンもなく、
小さい店の灯だけがうっすらと点っている。駅前を歩く人も地味な格好ばかり……
(もしかして……)その【もしか】が的中したのであった。
島崎は駅前のキオスクで夕刊を買った。一面の上段に大きく【昭和34年5月16日】の活字……
 何と島崎は昭和34年の東京にタイムスリップしてしまったのだ……あの店を出た直後に……。
島崎の額には冷や汗が流れ始めた。
(もしかしたらあの店に戻れば現在に戻れるに違いない)と思うと大急ぎで引き返し、横丁の片
隅にある【夕焼け酒場】に急いだ。
 【本日は閉店しました。又のご来店をお待ちしています】の素っ気ない看板が下りている。ふと
壁を見ると【定休日 日曜日】と書いてある。扉のノブを力任せに押しても引いても既にカギがか
かっていてびくともしない。
 さっき買った新聞を見ると、今日は土曜日らしいので、明後日に来なければ店の中に入れない。
 けれど島崎は少しパニックを起こし新宿駅前をうろたえ始めた。しかし現実として過去にタイムス
リップした事には変わりが無いと思うと諦めに変わった。しかし考えを改めるとそんなに動揺しなく
てもどうにかなるのかなと、思わざるを得なかった。と言うか自らプラス思考をしないと状況が何も
変わらないと悟ったのだ。
 幸い【面影通り繁栄会】で1万円ほど当時の通貨に換金しているので金には困らない(当時の物
価は今の一割程度)し、独身なので必ずしも家に帰宅しなくていいし、明日は会社が休みだし、少
なくとも日本なので言葉には不自由しないし、何といっても何かの間違いで過去にタイムスリップし
た訳なのだから、時空のひずみが突然戻ったとかでたとえ1%でも現在に戻れる可能性があるか
らだ。実は島崎は今風のサラリーマンではあるが、少し前から昭和30・40年代の生活に興味を持
っていたし、憧れを持っていた。彼がよく読んでいる漫画雑誌に昭和30年代がテーマの作品があ
り、よく読んでいるという事と、近年の昭和30年代ブームに乗り、当時のノスタルジックな雰囲気に
もそれなりに関心がある。【面影通り繁栄会】で日々のストレスを癒している事も理由としてある。
 今更じたばたしても過去に来てしまった以上仕方が無い。とりあえず駅の近くで交番を探し、
「すみません、このあたりに泊まるところはありますか?」
 警官は、新宿駅東口に一軒簡易旅館があると教えてくれた。島崎は警官に場所を訊くと、駅の東
口に向かった。
 夜なので辺りの風景は良く分からなかったが、やはり今の風景と全く違う。駅から少し歩いた所に
ある簡易旅館は、まるで戦前から建っているような重厚な造りであった。
 年季が入った大きな扉を開けると、初老の管理人が受付でいかにも暇そうに座っていた。
「いらっしゃい……」
「あの……二泊お願いできませんか?」島崎は申し訳そうに頼んだ。
 暫くの沈黙の後管理人は答えた。
「空いております。では宿帳に住所氏名を書いてください」
 島崎は不安になった。宿帳に住所を書かないと泊まれない。けど東京住まいはまだ日が浅く、
昭和30年代当時の住所までは知らない。半分やけくそになって[静岡県静岡市]と、実家の住所
を書いた。
 管理人は「おんや、あなたも地方からの方で……最近地方からの客が増えたのお……。皆さん
こざっぱりな背広を着て酒を飲んでいて……」
 管理人の話はさらに続く。
「先月泊まった新潟から来たという人は、『俺は未来から来たんだぜ〜』と戯言(たわごと)みたい
な事を言っていたし……」
 ここまで聞いて島崎ははっとした。
(僕の前にも何人かこの時代にタイムトリップした人がいた!)
 そう思うと急に未来が明るくなった。
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