7月下旬のある日、宏が帰宅すると、いつもは無言の由紀子であるが、今日に限って、
「お帰りなさーい」妙に明るい声。
「おい、由紀子。どういう風の吹き回しだ」
「だって、久しぶりに友人から手紙が届いたんだもの! 」
 ちゃぶ台の上に一枚の手紙。差出人は河瀬さんだ。宏は何となく心配になってきた。
 由紀子にとっては河瀬さんは昔からの親友であることには変わりない。これは男にはわか
らない心理なので、それを知らない宏は心配するしか出来なかったのだ。
 一通り手紙に目を通した由紀子は、
「絵里ったら板橋に住んでいるんだね。結婚式以来全然音沙汰がなかったから……」
 池袋と板橋。確かに近い。どうやら約束を守ってくれたらしく勤務先までは手紙に書いてな
かったみたいだ。しかしその数分後、宏にとって嫌な予感が的中した。
「あなた、先日池袋で絵里に会ったんだったね」
 ここで誘導につられてあらぬ事まで話したら相手の思う壺だと思い、平静を保ち、
「うん。そうなんだ。会社の帰りにふらっと池袋に立ち寄ったら偶然逢っちゃって……」
「で、絵里どうだった? 相変わらずだった? 」
 当時の面影は薄かったが妙にはしゃいでいたし魔性の気質はそのままだった。
「そうだね」と返すのが無難であろう。すると、
「それと、手紙の最後に『お盆休みは実家のある房総に帰省します。千葉の海は穏やかで綺
麗ですので是非お越し下さい』と書いているね。ああ、私も海に行って久しぶりに会いたいな」
 由紀子は彼女の何気ない一文に喜んでいるが宏にとっては河瀬の魂胆が薄々判る。
 スイミングスクールの帰り、池袋のレストランで酔った勢いでつい町内旅行のことを話してし
まったのが発端だ。きっと河瀬は俺の泳ぎっぷりを堪能した後で由紀子に俺がカナヅチだった
事をばらすに違いない。そうでなくとも妙になれなれしく接する2人の姿を見て、由紀子が嫉妬
するのを見届けたいのか。考えすぎかもしれないが一応警戒すべきだろう、と思った。
「そう言えば町内会の旅行が確かお盆明けだったね。場所も千葉と書いてあった気が……ひ
ょっとしたら……」由紀子は幾ばくかの期待が浮き上がってきた。
「あなた、町内会の日帰り旅行はどうするの? あなただけ留守番でもいいのよ」
「真夏に東京で留守番だけは嫌だ。久しぶりに海に行って仕事のストレスも吹き飛ばしたい」
「……この前と打って変わって急に元気になったね……まあ、いいか」
 翌日、由紀子は台所に置いていた申込書の【参加】に丸をして町会長に提出した。そして河
瀬にも、海に行く旨も含め返事を書いてポストに投函した。

 町内会の旅行当日。集合場所である神社の境内に朝早くから町内の住民が集まっている。
子供づれは水着やゴザや浮き輪を持参して、海に行くのを今か今かと待ち構えている。
 古賀さん一家も買ったばっかりの水着とタオルと水筒が入っているかばんを持っている。
 町内会で貸しきった小さいバスに参加者全員が乗り込むと、一路千葉へ向かった。
 当時は高速道路はおろか国道も整備されてなかったので、延々と幅の狭い道路が続く。しか
も所々凸凹道がありバスによる移動は決して楽しいものではなかった。それを我慢するとやが
て太平洋が見えた。普段見られない海の広さに驚く声と歓声が車内のあちこちで聞こえる。
 昼前に一行は房総の海岸に着いた。バスに降りると皆一目散に海の家に入った。着替えを
する人、とりあえず海の家で一休みをする人、普段着のまま砂浜に出る人と様々だ。みんな思
い思い海を楽しんでいる。
 宏は水着に着替えるなり子供と一緒に海の中に入った。プールと違って海水の感触が独特
で、足元もおぼつかないのだが、大自然の雄大さを肌で噛み締めている。子供も生まれて初
めての海に興奮したり感激したりしている。
(海に入るだけではしゃぐなんて、男って単純ね)とラムネを飲みながら果てしなく続く海と空を
眺めていると、
「由紀子じゃないの。久しぶり! 」手紙で返事して逢う日取りを約束したので、河瀬絵里がほぼ
時間通り海水浴場に現れた。大学の頃と変わらないスレンダーでそれほど年を感じられない。
「絵里っていつまでたっても変わらないで若々しいね。本当うらやましい」
「そんなこと無いよ。もう30過ぎになったんだから」
「私のほうがずっとおばさんだよ。子供も生んだし太ったし……」
「由紀子の方がずっと立派だよ。カッコいい旦那さんもいて、子育てしながら毎日を楽しんでいる
のだから。私なんかいまだに独りだし、毎日仕事尽くめだから……」
 砂浜で2人が話していると、宏たちが海から上がってきた。彼女が来る事は判っていたので、
「お久しぶり」と先ずは軽く挨拶をした。
「古賀さんの泳ぎはお上手ですね。流石に運動選手だけあってスジも良いですし」
 宏は(スイミングスクールの話題を引き出そうとしているな)と思い、
「僕の泳ぎは我流ですから……」と嘘を交えて軽くあしらった。すると、
「せっかく私も海に来たのですし、古賀さんと一緒に泳いできてよろしいですか? 」
「構わないよ。あいにく私は泳げないので……その間子供と一緒に浜辺で遊んでいますから」
 その言葉を聞いて宏は驚いた。由紀子は泳げなかったのだ。ならば正々堂々自分も泳げない
と宣言しても良かったかな、と思った。
 河瀬さんが着替えをするために海の家に向かったタイミングを見て、
「由紀子ってカナヅチだったの? 」
「そうよ。知らなかったの? 」
「今初めて聞いた。だってこの間から海に行きたいってずっと言っていたのは由紀子だったから、
本当に泳げるのだと信じていた」
「海って泳ぐだけにあるんじゃないよ。泳げなくても水遊びでも楽しめるし、日光浴でも、浜辺でス
イカ割りでも、磯遊びでも何でもできる。都会では味わう事の出来ない楽しみ、山や川でも体験で
きない遊びも山ほどあるじゃないの。だから私は日常の生活から離れて海に行って水遊びしたり
砂浜で子供と砂山作ったりしたい、って思っていたのよ」
「そうだったんだ。ところで河瀬さんと一緒に泳ぎに行っていい?一応由紀子の友達だから一言
言ったほうが良いかな、と思って」
「あら、そんな事だなら大丈夫よ。あなたの泳ぎ姿を見られるだけでも嬉しいから」
 そう言うと由紀子は素足になり、子供と波打ち際まで行き、打ち寄せる波の満ち干きを興味深く
眺めていた。
 すると河瀬さんがやってきた。
「お待たせ! 」
 なんと赤いビキニ姿でやって来たのだ。昭和30〜40年代、女性の水着は地味なワンピースが
主流で、当時としてはビキニは勿論のことセパレーツの水着でさえも珍しい時代だった。スリムな
河瀬さんだからビキニも似合っている。
「あら、絵里ったら大胆ね」
「そりゃ久しぶりの海で、もっと久しぶりの古賀さんだもの。このくらいはしないと」
 由紀子の顔は全く引きつってなく、むしろ彼女の水着姿にうっとりしている。
「それじゃ、少しの間泳いでくるから」二人で沖に向かった。
 初めての実践になるのだが、何とか形になって泳ぐ事が出来た。それにしても泳ぎなれてい
るのか河瀬さんは見事な平泳ぎだ。まるで蛙になっているかのように上手だ。
 浜で由紀子と子供が手を振っている。きっと2人の泳ぎを見ていたに違いない。
 やっと足が付くところまで2人は泳ぎ続けた。水着姿だからも知れないが今この瞬間河瀬さん
がものすごく美人に見えた。数週間前のスイミングスクールではちょっと棘のある女性にしか見
えなかったのだが、妻公認という心の余裕が出来たのか不思議と彼女に魅力すら湧いてきた。
「そろそろ海から上がるか」
 そう言いながら浜に向かった。時間は正午になっている。2人が浜に戻ると由紀子たちは海の
家の休憩所にいた。気を利かせて焼きそばを4人前買ってきていた。どうやら機嫌は良いらしい。
 確かに河瀬は由紀子の友人である事には間違いないし、彼女の知っている女性なら旦那との
付き合い程度なら認めているのだろう。確かに相手が由紀子の知らない女となると、どうなるか
わからない位は目に見えている。
 午後は少し3人で談笑した後、宏は気を利かせ海の家の休憩所から中座すると、子供とまた
沖へと泳ぎに行った。
 せっかく泳げるようになったのだから、子供に泳ぎを教えたり、一緒にもぐりっこをしたりして久
しぶりに親子のふれあいもさせてあげた。
 そろそろ東京に帰る時間になった。古賀夫妻は河瀬さんに別れを告げると、
「今度は東京でゆっくり会いましょう」と話すと河瀬さんはにっこり微笑んだ。
 一家はバスに乗り込んだ。バスの窓から河瀬さんの姿が見える。
「今日はどうもありがとう! 」宏は叫ぶと精一杯手を振っているのが見えた。
 古賀さん夫婦も久しぶりの友達に会え、とても充実した一日であった。そして宏は河瀬さんが
登場した事によって、懸念された由紀子との関係にも暗雲が立てこめなかった事にほっと安心
した。むしろ2人の間のわだかまりや疑念を払拭してくれた最高の救世主にも見えた。
 沢山の思い出とお土産を持ってバスは東京に向かっている。
 誰も居なくなった海岸に大きな夕日が沈んでいった。
【完】

参考資料:夕焼けの詩(小学館)
使用お題:焼きそば・素足・海水浴・日差し・ラムネ・ひまわり・すいか