翌日、宏と推定年齢50歳の男性水泳指導員しか居ないプール。時々水が滴る音が聞こえる
以外は静まり返っている。
「それでは第一回目の指導を始める」指導員の声を合図に2人はプールの中に入った。
当時としては最先端の温水プールだったので思ったほど快適だ。
プール内での歩行訓練を終えた後、指導員は、
「頭を水につけて5つ数えてください」
何と意外な方法だと思った。しかしいざやってみようとしたら、思ったほどうまくいかないのだ。
水の中では息苦しいし、目の中に水が入るのが怖くて目は開けられない。5つ数えきらないう
ちに我慢できずに思わず顔を上げてしまった。
(どうも水の中は怖いな……)
「そんななりじゃ、いつまでたっても泳げませんよ」さっきまで温和そうな感じだった指導員の声に
急に棘が生えてきた。
「人間というものは誰でも泳げるようになっているが、いざ水を怖がると泳げなくなります。先ずは
水に慣れないと駄目ですから! 」
わざと指導員から目をそらすと誰も居ないはずのプールに誰かが立ち入っている。声からして
昨日受付をした事務員さんが数人居る。なぜ俺の無様な姿を眺めているんだ? とも思った。
けどとりあえずはそんな事よりも水に早く慣れなくてはいけない。
20分後、一向に水に慣れていない宏に見かねた指導員は、【奥の手】を取り出した。
「これから水の中に何かを落としますので拾ってください。ただし、足で拾ってはいけません」
チャポンと何かが沈む音がする。水面上からでは何かが光って見えるが指導員が無意味に波
を作るのではっきりと見えない。
(思い切って潜らないと……)そう思い大きく息を吸うと頭を静め、恐る恐る目を開けた。
(水の中は思ったより綺麗で、しかも目も痛くない)すると足元に10円玉が落ちているのを見つ
けた。手を伸ばして拾うとすぐさま水中から顔を上げた。
「どうやらいくらか水に慣れたみたいですね」
宏はちょっと姑息な手だったけど水を怖がらなかったのは確かだ。そう考えると少し遅れて照
れた。女性事務員の笑い声も聞こえた。特に背が一番高い事務員がけたたましく笑っている。
一旦水を怖がらなくなると慣れるのは早いもので、一日目の終わりには体が水に浮く段階ま
で進んだ。
「先生! 本当に水に浮きました! 生まれて初めてです! 」
「あなたも一旦水になれると上達がお早いですね」
指導員もすっかり顔がほころんでいる。見ている事務員たちも拍手している。
一日目が終了し、背広に着替えてスイミングスクールを出ようとした時、意外な声を耳にした。
「古賀さんですね。こんなところで再会できるとは……」
受付をした事務員さんではないのに、なぜ俺の名前を知っているんだ? 少し不思議に思った。
「まだ思い出せないのですね。もう8年経っているのですから判らなくても仕方ないかもしれま
せん。……私は古賀さんと同じ大学に在籍していた河瀬絵里と言います」
大学卒業して8年が経ち当時の面影は薄くなったが、確かに俺の恋人候補の一人だった。他
の5人と比べひときわ背が高かったのを覚えている。
「古賀さんの【結構な】姿、とくと拝見しました。この姿を由紀子にも見せたかった」
更に意外な言葉が宏の耳に届いた。
「それは絶対に無理。だって……」
妙にしどろもどろの姿をみて河瀬はなおもしつこく追求する。
「ははあ、この様子だと古賀さんがカナヅチな事も、ここに内緒で練習している事も由紀子は
知らないんだ……」河瀬は不気味に薄笑いをしている。
昔の恋人候補に会うのは嫌ではなく、むしろ嬉しいのであるが、今日に限っては事情が違っ
ている。完璧に弱みをつかまれている。由紀子にだけは知られたくない。知られても笑って
済ませられるが確実に亭主としての面目がつぶれる。
ここは一つ折れるのがいいと思い、
「その通りだ。面目ない。実は俺は水泳だけが苦手で、なかなかそのことを白状できなかっ
た。今月になって町内旅行で海に行く話を聞いて、海に行こう行こうとせがまれた。当座は
凌げたが、また不意打ちをかけてくるかもしれない。泳げない事を知ったら風当たりも変わっ
てくるだろうと思い、内緒でここに来ているんだ」
「全て話してくれただけでも評価してあげましょう。けど……」
(けど、一体何だよ? )どんな言葉が返っても受け入れないといけないと覚悟(期待かも? )を決
めると、以外にもあっけない答え。
「泳げるようになったら一緒に海に行こうね! 」このくらいなら朝飯前だ。元恋人候補との秘密
のデートも悪くない、と思ったら、流石にこれには鋭く釘を刺され、
「古賀さんの家族と一緒で! 私も由紀子には会いたいし」
それはそれで構わないが、ちょいと面倒なことになるかも、と思った。一緒に居ていつ何時
スイミングスクールの事を由紀子にばらしたらたまったものでもない。ましては職業を聞かれ
ると感づかれるかもしれない。ここは一つ対処しておかないと。
「いいけど、今の職業の事を由紀子に聞かれたら『スポーツクラブの事務員』と答えろよ。あと
で見返りはたっぷりするから。お願いだ! 」
「かつての恋人に拝み倒されてはかなわない。判った。その代わり見返りはしっかりとしても
らいますよ……」妙に色気のある言葉で宏に話した。
二人は手をとりつつ夜の池袋の街に消えていった……
(由紀子よ、許せ! 今はどうしても付き合わないといけないんだ)宏は愛する妻子に悪いと思
いながらも内心は喜んでいる。河瀬も自分のしている事が横恋慕だと思っていながらかつて
の果たせなった思いを馳せる最後のチャンスだったのだろう。
ひょんなことで逢引を済ませた宏は終電車に飛び乗り、家路に辿り着いたのは深夜だった。
次の日、スイミングスクールに入るなり河瀬の妙にけたたましい声がロビーに響く。
「夕べは楽しかったね! 」よせばいいのに投げキッスもしてくる。
他の事務員のささやきを無視してそそくさと脱衣室に入った。
(品川のスイミングスクールにすればよかったかな)と思ったが既に時遅し。まあ懐かしい魔性
の女性に再会できただけでもよしとするか……と片ける宏。
いざ水に慣れるとしめたもので、元から運動神経のある宏なので、めきめきと上達しその日の
終わりにはクロールもそこそこの形にまで仕上がった。指導員も、
「これで息継ぎと腕を伸ばすタイミングを合わせれば完璧ですね」とまで褒められた。
2日目にしてそこそこの泳法をマスターした宏は水泳が俄然楽しくなり、本来ならこれで止め
てもいいはずの日程を更に一日延長した。
3日目はほとんど指導員の手ほどきを受けず、25mのプールをクロールで往復するところまで
上達した。(もっと早く泳げるようになっていればよかった)とまで思うようになった。まあ多かれ
少なかれ水に拒絶し続けていたのも事実だったのだが。
3日目の最後には河瀬がプールサイドまでやってきて、
「流石はスポーツマンの古賀さんですね。たった3日でカナヅチを克服しクロールが出来るよ
うになったのですから。見直しましたわ」と褒められた。おじさん指導員も、そして他の事務員
も皆笑顔だ。
予想以上に早く上達したという事で、受付で前払いした受講料のうち半分以上を払い戻して
くれた。ここでそのまま懐に入れていればなんともなかったのだが、ついつい気が大きくなっ
てしまい、よせばいいのにまた河瀬さんを食事に誘ったのであった。
数日後。会社で山内は、
「泳げるようになったか? 」
「当たり前さ。おかげで助かったよ。まあちょっと色々あったけど……」
「色々って? まさか美人のコーチに指導してもらったとか?! 」
「そんな事ではない。そんなに世の中は甘くないさ」
山内には礼を言ったし、これでいつでも海にいっても大丈夫だ、と思った。
以外は静まり返っている。
「それでは第一回目の指導を始める」指導員の声を合図に2人はプールの中に入った。
当時としては最先端の温水プールだったので思ったほど快適だ。
プール内での歩行訓練を終えた後、指導員は、
「頭を水につけて5つ数えてください」
何と意外な方法だと思った。しかしいざやってみようとしたら、思ったほどうまくいかないのだ。
水の中では息苦しいし、目の中に水が入るのが怖くて目は開けられない。5つ数えきらないう
ちに我慢できずに思わず顔を上げてしまった。
(どうも水の中は怖いな……)
「そんななりじゃ、いつまでたっても泳げませんよ」さっきまで温和そうな感じだった指導員の声に
急に棘が生えてきた。
「人間というものは誰でも泳げるようになっているが、いざ水を怖がると泳げなくなります。先ずは
水に慣れないと駄目ですから! 」
わざと指導員から目をそらすと誰も居ないはずのプールに誰かが立ち入っている。声からして
昨日受付をした事務員さんが数人居る。なぜ俺の無様な姿を眺めているんだ? とも思った。
けどとりあえずはそんな事よりも水に早く慣れなくてはいけない。
20分後、一向に水に慣れていない宏に見かねた指導員は、【奥の手】を取り出した。
「これから水の中に何かを落としますので拾ってください。ただし、足で拾ってはいけません」
チャポンと何かが沈む音がする。水面上からでは何かが光って見えるが指導員が無意味に波
を作るのではっきりと見えない。
(思い切って潜らないと……)そう思い大きく息を吸うと頭を静め、恐る恐る目を開けた。
(水の中は思ったより綺麗で、しかも目も痛くない)すると足元に10円玉が落ちているのを見つ
けた。手を伸ばして拾うとすぐさま水中から顔を上げた。
「どうやらいくらか水に慣れたみたいですね」
宏はちょっと姑息な手だったけど水を怖がらなかったのは確かだ。そう考えると少し遅れて照
れた。女性事務員の笑い声も聞こえた。特に背が一番高い事務員がけたたましく笑っている。
一旦水を怖がらなくなると慣れるのは早いもので、一日目の終わりには体が水に浮く段階ま
で進んだ。
「先生! 本当に水に浮きました! 生まれて初めてです! 」
「あなたも一旦水になれると上達がお早いですね」
指導員もすっかり顔がほころんでいる。見ている事務員たちも拍手している。
一日目が終了し、背広に着替えてスイミングスクールを出ようとした時、意外な声を耳にした。
「古賀さんですね。こんなところで再会できるとは……」
受付をした事務員さんではないのに、なぜ俺の名前を知っているんだ? 少し不思議に思った。
「まだ思い出せないのですね。もう8年経っているのですから判らなくても仕方ないかもしれま
せん。……私は古賀さんと同じ大学に在籍していた河瀬絵里と言います」
大学卒業して8年が経ち当時の面影は薄くなったが、確かに俺の恋人候補の一人だった。他
の5人と比べひときわ背が高かったのを覚えている。
「古賀さんの【結構な】姿、とくと拝見しました。この姿を由紀子にも見せたかった」
更に意外な言葉が宏の耳に届いた。
「それは絶対に無理。だって……」
妙にしどろもどろの姿をみて河瀬はなおもしつこく追求する。
「ははあ、この様子だと古賀さんがカナヅチな事も、ここに内緒で練習している事も由紀子は
知らないんだ……」河瀬は不気味に薄笑いをしている。
昔の恋人候補に会うのは嫌ではなく、むしろ嬉しいのであるが、今日に限っては事情が違っ
ている。完璧に弱みをつかまれている。由紀子にだけは知られたくない。知られても笑って
済ませられるが確実に亭主としての面目がつぶれる。
ここは一つ折れるのがいいと思い、
「その通りだ。面目ない。実は俺は水泳だけが苦手で、なかなかそのことを白状できなかっ
た。今月になって町内旅行で海に行く話を聞いて、海に行こう行こうとせがまれた。当座は
凌げたが、また不意打ちをかけてくるかもしれない。泳げない事を知ったら風当たりも変わっ
てくるだろうと思い、内緒でここに来ているんだ」
「全て話してくれただけでも評価してあげましょう。けど……」
(けど、一体何だよ? )どんな言葉が返っても受け入れないといけないと覚悟(期待かも? )を決
めると、以外にもあっけない答え。
「泳げるようになったら一緒に海に行こうね! 」このくらいなら朝飯前だ。元恋人候補との秘密
のデートも悪くない、と思ったら、流石にこれには鋭く釘を刺され、
「古賀さんの家族と一緒で! 私も由紀子には会いたいし」
それはそれで構わないが、ちょいと面倒なことになるかも、と思った。一緒に居ていつ何時
スイミングスクールの事を由紀子にばらしたらたまったものでもない。ましては職業を聞かれ
ると感づかれるかもしれない。ここは一つ対処しておかないと。
「いいけど、今の職業の事を由紀子に聞かれたら『スポーツクラブの事務員』と答えろよ。あと
で見返りはたっぷりするから。お願いだ! 」
「かつての恋人に拝み倒されてはかなわない。判った。その代わり見返りはしっかりとしても
らいますよ……」妙に色気のある言葉で宏に話した。
二人は手をとりつつ夜の池袋の街に消えていった……
(由紀子よ、許せ! 今はどうしても付き合わないといけないんだ)宏は愛する妻子に悪いと思
いながらも内心は喜んでいる。河瀬も自分のしている事が横恋慕だと思っていながらかつて
の果たせなった思いを馳せる最後のチャンスだったのだろう。
ひょんなことで逢引を済ませた宏は終電車に飛び乗り、家路に辿り着いたのは深夜だった。
次の日、スイミングスクールに入るなり河瀬の妙にけたたましい声がロビーに響く。
「夕べは楽しかったね! 」よせばいいのに投げキッスもしてくる。
他の事務員のささやきを無視してそそくさと脱衣室に入った。
(品川のスイミングスクールにすればよかったかな)と思ったが既に時遅し。まあ懐かしい魔性
の女性に再会できただけでもよしとするか……と片ける宏。
いざ水に慣れるとしめたもので、元から運動神経のある宏なので、めきめきと上達しその日の
終わりにはクロールもそこそこの形にまで仕上がった。指導員も、
「これで息継ぎと腕を伸ばすタイミングを合わせれば完璧ですね」とまで褒められた。
2日目にしてそこそこの泳法をマスターした宏は水泳が俄然楽しくなり、本来ならこれで止め
てもいいはずの日程を更に一日延長した。
3日目はほとんど指導員の手ほどきを受けず、25mのプールをクロールで往復するところまで
上達した。(もっと早く泳げるようになっていればよかった)とまで思うようになった。まあ多かれ
少なかれ水に拒絶し続けていたのも事実だったのだが。
3日目の最後には河瀬がプールサイドまでやってきて、
「流石はスポーツマンの古賀さんですね。たった3日でカナヅチを克服しクロールが出来るよ
うになったのですから。見直しましたわ」と褒められた。おじさん指導員も、そして他の事務員
も皆笑顔だ。
予想以上に早く上達したという事で、受付で前払いした受講料のうち半分以上を払い戻して
くれた。ここでそのまま懐に入れていればなんともなかったのだが、ついつい気が大きくなっ
てしまい、よせばいいのにまた河瀬さんを食事に誘ったのであった。
数日後。会社で山内は、
「泳げるようになったか? 」
「当たり前さ。おかげで助かったよ。まあちょっと色々あったけど……」
「色々って? まさか美人のコーチに指導してもらったとか?! 」
「そんな事ではない。そんなに世の中は甘くないさ」
山内には礼を言ったし、これでいつでも海にいっても大丈夫だ、と思った。