脱!KANADUTI    (sagittaさん主催 「競作小説企画 第3回夏祭り」参加作品)

 昭和43年。東京近郊に住むサラリーマンの古賀宏さん、30歳。背が高くはっきりとした顔立ちで
学生時代からスポーツ大好き青年だったので大学時代からかなり女性にもてていた。大学4年
にもなると絶えず彼の周りには6人の恋人候補が集まって来たという。
 大方の予想通り、大学卒業と同時に結婚した。お相手は他の5人の恋人候補の熾烈な争いを
勝ち抜いた由紀子さんだ。
 たとえ恋人候補同士とも言えども友人であり決してライバルではなかった。だから2人の結婚式
には宏さんとのプロポーズ選手権に共に戦った【戦友】も全員出席した。
 2人は大学の近くのアパートに住み、すぐに長男を出産。その後も順風満帆な生活を送っていた。
由紀子さんはスポーツが得意でしかもスタイルは格好よく、それでいてやさしい宏さんに惚れたの
であった。しかしこんな彼にも嫌いなスポーツが存在していた。
 それは水泳である。
 彼が子供の時は長野県の山間部にある小さい村に住んでいたので、海には縁がなく、村内を
流れる川も上流だったので水遊びには適していなかった。もちろん学校も小中学生と職員あわ
せて50人足らずの小さい分校だったのでプールはおろか体育館すらもなかった。
 だから日差しの強い真夏でも水泳の授業は全くなく、狭い校庭で多人数で楽しめる球技以外
は、ひまわりの咲いている校庭や山道でのランニングが中心であった。山間部なので隣町にあ
る県立高校にもプールがなかった。そして夏の家族旅行も山ばかりで、海は一度も行った事が
なかった。何しろ生まれて初めて海を見たのは新婚旅行で熱海に行った時だった。勿論新婚旅
行なので温泉と名所めぐりが中心で海水浴が目的ではなかったが。
 雄大な太平洋を見て、
「こんなに雄大な景色を見たのは初めてだ! 」
 とまるで子供みたいにはしゃいでいたのを今でも覚えている。
 しかしその時も由紀子は(山育ちで海を見た事がなかったから素直に喜んでいるのだな)とだけ
しか思っていなかった。
 それ以前に由紀子の頭の中には【スポーツ万能】という宏のイメージが出来上がっているので、
当然水泳も得意だと思っていたのだ。だから、今まで由紀子は宏が当然泳げるのであろうと信じ
込んでいた。しかしそのイメージがある日揺らぎ始めた。
 7月のある日のこと。
 夕飯後、由紀子が何気なく回覧板を見ていると、このような案内のガリ版が入っていた。
【今年の町内会旅行は8月後半に房総の海岸での海水浴に決定しました。参加者は今月末まで
に申込書と旅行費を添えて町会長宅まで持参してください……】
 これを見て小学2年生の息子が、
「海に行きたい! 」と言い出してきた。
「いつも山ばかりだったからたまには海も良いね。浜遊びやスイカ割りも楽しみだし! 」由紀子もま
だ申し込みもしていないのにわくわくしている。それを隣で聞いていた宏は、
「海か……疲れるし、暑いし……」と茶を濁している。
「何で? 以前熱海に行った時あれほどはしゃいでいたじゃない? 」
と話してもあいまいな返事を続けている。
 由紀子は突然黙り込んだ。急に雲行きが怪しくなってきた。由紀子は立ち上がり後片付けを
始めた。息子は食べ終わった食器を台所に進んで運んでいたが、宏にはそんな気力さえもな
かった。そのまま小声で、
「風呂に行って来る……」と言い、タオルと石鹸を持ってそそくさと銭湯に出かけた。
(由紀子のやつ、俺がかなづちだと言う事を薄々知れたのかもしれない……)銭湯の大きな湯船
に浸かりながら一人考え込んでいた。町内にある銭湯なので、男湯からも回覧板で回っていた町
内旅行の話題に花が咲いていた。
「海に行くのは何年ぶりだろう」
「一緒に海水浴をしようね! 」
「早く旅行に行きたいな」
 老若思い思いに海への思いを馳せている。
 町内の人の多くが海を待ち望んでいるみたいだ。確かに都心部なので自然は余り無い。まして
や山や海といった田舎の風景は遠出をしないとまず見られない。
 今と違って簡単に旅行に行くのが容易ではなかった時代だったので、日帰りとは言えども普段見
ることの出来ない地域に行くのは庶民の数少ない楽しみといえる。
(やはり泳げない事をはっきりと白状したほうが良いのか。それとも克服すべきか。それとも海でわ
ざと悪態をついたほうがかえっていいのか……)
 考え事をしていると誰かが背中を叩いた。
 宏が振り向くと、そこには古くからの知り合いの顔があった。近所に住む村上さんだ。
「何浮かない顔をしているんだ」
「ちょっと深い事情があって……この話を秘密にしてくれるなら話してやるよ」
「昔からの仲だ、当たり前じゃないか」
「ここじゃ他人の目があるから風呂から出た後で」
銭湯から出た帰り道、宏は村上に耳打ちした。
「そうだったんだ……意外だなあ……」村上も知らなかったみたいだ。
「それで、今度の町内会の旅行をどうしようかと」
 村上は少し考えた後、
「子供の為にも海に行ったほうがいいけど。海水浴と書いてあったけど必ずしも海で泳がないと
いけない訳ではないからな」
「確かにそう言ってみればそうだけど、突然嫁が『泳いでくれ』と言われた時にどうしたらいいの
かと思うと……」
「そういう可能性が少しでもあるのなら、いくらかでも泳げる様にしたほうがいいな。古賀ならもと
もと運動神経が良いからすぐ泳げるようになるさ」
「やはり水泳は覚えないといけないか」
「あいにく俺は泳ぎを指導できる人は知らないけど、都内に出ればスイミングスクールはいくつか
あるんじゃないか? 」
「分った。探してみるよ」
 やはり水泳くらいは身に付けておいたほうが良いのか……と感じた。
 翌日。宏の会社は山手線沿線にある。大きなターミナル駅周辺ならきっと一軒くらいスイミング
スクールはあるだろう。
 昼休み、同僚の山内にそれとなく聞いてみた。
「スイミングスクール? 古賀って泳げなかったのかよ! 」
「実はそうなんだ。来月までにどうしても泳げるようにならなくなったんで」
「そうか。僕の知っているところが2箇所あるけど、初心者向けのコースがあるかどうかは分らない
けど、それでも良いかな? 」
「構わないさ、直接行って訊いてみるから」
 山内に教わったスイミングスクールは、宏の会社がある品川と池袋の2箇所だ。こう言う場合、会
社の周辺だと会社の同僚に万一出くわした時に返答に困るので会社から遠い池袋にした方が妥
当だと思った。
 退社後、宏は通勤に使う私鉄には乗らず、山手線に乗り池袋駅で降りた。そして山内から教わ
ったスイミングスクールに向かった。駅から歩く事10分、かなり大きい建物だ。受付の事務員に、
「すみません、初心者なのですけど教えてもらえますでしょうか……」
 大人が泳げない事がさほど珍しい時代ではなかったので、係員の対応もいたって普通だ。ただ
気になったのは宏を指して何人かの女性従業員がひそひそ話をしていた点だ。やはり大の大人
が水泳を習う事自体、多少なりとも好奇の目で見られてしまうのだろうか。
 夕方なら小学生の客が少ないので特別に指導出来るとの事。宏は藁をもつかむ思いで一週間
の初心者コースに入会した。水着込みで3000円という講習代金は安月給のサラリーマンとしては
やや痛いが、父と夫の威厳を保つためには致し方ない。
 こうして宏は家族に内緒でスイミングスクールに通う事になった。勿論家族には会社の接待で
遅くなると言ったのは言うまでも無い。