バスストップのある風景
 路線バスは今も昔も庶民の大切な公共交通機関である。
 しかしバスの運行形式は年を経るに従ってだんだんと変化している。地域や住環境によっても
違いはあるものの、現在では利用者の少ない地域では小型のバスに移行しつつある。
 もちろんたとえ時代が変化しても、市民の貴重な足である事には変わらない。
 私はブロック塀。東京近郊の幹線道路沿いに建っている。
主人様の家と敷地を守る為に雨の日も風の日も耐え風化にも耐え現在まで生き続けている。
 私は建造物なので自由に動けないが、付近にある物とおしゃべりをしたりご主人様の家にある
木々を眺めたりして毎日を過ごしている。
 塀という関係上、時々人間が私の体にホウロウ看板を付けられたり、犬や酔っ払いが私めがけ
て立小便をしてしまうと言う事は時々あるが、それにもめげず一日を送っている。
 私の目の前は、バス通りになっていて、朝から夜までいつも決まった時間に路線バスがやって
くる。私の真向かいに真新しいバス停が立っている。小さいバスながらも毎日たくさんの客を乗せ
ている。
 話が好きな私は、バス停やバスと話するのも日課のひとつであった。
 バスと言えば私がここに来てから今までずいぶん形が変わっていった。今思い出しても数々の
姿を思い出す……。
 私がブロック塀としてこの世に生まれたのが昭和34年。今のご主人様がこの地に家を新築した
時であった。その時には既に目の前にバス停は立っていた。毎日バス停の前にバスが止まって
いるの不思議に思っていると、
「はじめまして。僕は『バス停』って言うんだ。走っているバスを止めて、お客さんの乗り降りをして
いる役目をしているんだ」
と自己紹介をしてくれた。私はすぐに仲良くなった。
 昭和30年代のバスは、ボンネットスタイルの古風なものである。バスには必ず車掌が乗ってい
る。今では考えられないが、当時はバスにも車掌がいて、客の運賃清算やバスの誘導と、安全
運行には欠かせない存在であった。
 車掌は女性が多く、いわゆる【バスガール】として親しまれていた。私の所に来るバスにも車掌
は乗車していた。30代前半のベテランの方らしく、バスが発車する際の「発車オーライ!」の声も
ひときわ大きく聞こえた。
 私は、友人のバスにこの事について話すと、次のように教えてくれた。
「僕に乗っているバスガールさんは、うちの会社に10年以上勤めている人なんだ。けどまだ独
身みたいだよ」
 私はブロック塀なので動けないが、健気に仕事をしているバスガールの声を聞くだけで元気に
なってくる。
 何しろ当時は私の視界に見えるものはバス停以外は畑であった。僅かに視界の隅に民家が
一軒か二軒建っていただけであった。
 もちろん当時はまだまだ交通事情が悪く、自動車もほとんど走っていない時代だったので、庶
民の足としてバスの存在は大きかった。この頃のバスは定員よりかなり多くの乗客を乗せてい
たのを覚えている。
 しかし当時はほとんどの道路が舗装していなかったので、バスが通るたびに砂埃が上がり、
雨になると道路がぬかるんで、バスが通るたびに水溜りの泥水がバス停や私に飛び散った事
が何回かあったっけ。
 けどこの時代が一番のどかでよかった時代だと言える。
 昭和40年代に入ると鉄道の駅に比較的近い地域と言う事で付近の宅地化が少しずつ進ん
で行った。まばらだった住宅も次第に増えた時代でもある。
 生活が豊かになり始めた頃であり、この頃から自動車も少しずつ増えていった。
 しかしソフト面は進んでもハード面の整備は遅れ、道路がやっと舗装されたのは昭和40年代
の中頃であった。
 それなので車が増えた分砂埃も泥濘(ぬかるみ)も今までの倍以上にまで増えた。けどバス
は昭和30年代と同じくらいの本数で走っていたらしい。
 何しろバスの車両も車掌の数も限られているので、簡単に本数は増えなかったらしい。
 けど国からの規制緩和か何かのおかげでバスのワンマン運転が一般化されると、本数が少
しずつ増えていった。
 バスのスタイルも現在の形に近いものに変更され、乗車定員も増加された。ワンマン化とと
もに現在のシステムと同様の整理券方式に変更された。
 私は仲良しだったボンネットバスが居なくなってさびしかったが、この新しいバスもすぐに親し
くなった。しかしバス停は前から変わっていなかった。
 バス停はポールに円形のバス停名称版と四角い時刻表の板が付いているだけのシンプル
なスタイルだ。定番の形であり、地方のバス停は今でもこの型が多い。
 昭和40年代の終わり頃になると、宅地化はほぼ完了し、私の視野は住宅だらけになった。
 日本が豊かになり、道行く車もトラックの数も多くなって来た。もちろんバスの利用客も宅地
化によって増えている。
 ワンマン化されたおかげでバスの本数もかなり増えた。朝には10分おきにバスがやってき
て、たくさんの通勤客がバス停から駅方面へと運ばれていく。
 けどしばらくして問題点も出てきた。道幅に比べバスの車体が大きく、バス同士のすれ違い
が困難になったのである。
 この事実はバス自身も自覚し始めている。以前私がバスと話した時も「この道は狭くていや
だな。もう少し巾が広ければ楽に
通ることができるのに」とつぶやいていた。
 そうなると私も身の危険を少しずつ感じてきた。
  それは、【道幅の拡張】である。それを行うには物理的に道幅を広げること、すなわち塀や
歩道を取り壊して道路にする方法が一番手っ取り早くて簡単である。
 もしそうなるとブロック塀である私は壊されてしまう。私にとっては「破壊=死」である。
 バスはいつも動き回っているから、それに関しての情報も絶えず仕入れていた。
ある日、別のバスが、「近いうちに新しい道路を建設するらしい」との話をしてきた。これを聞い
て真偽のほどは定かではないもののひとまず安堵した。
 しかしその安堵は別の方へと発展していくようになったのはこれから数年先の事であった。
 昭和50年代。私の居る通りの近辺に新しいバイパス道路が開通し、バスやトラックはバイパ
スに回り、道幅の狭い道には乗用車しか通らなくなってしまった。つまりこの道路は完全な生
活道路に格下げになったのである。
 従って私は取り壊されはしなかったもののバス停が移動され、私の前にはバスが通らなくな
ったのである。私は古くからの話し相手を奪われてしまったのである。しばらくは空虚の時間
が流れていった。
 しかし、交通量が減ったおかげで、今まであまり通らなかった自転車や犬や猫が堂々と私の
前を通るようになった。
 その風景は私からすると、とてものどかに見えた。時代は変わり町並みもすっかり変わったけ
ど、何となく昭和30年代の雰囲気すらも感じた。
 朝には雀が私の目の前を通り、午前中は野良猫がのんびりと歩き、午後には学校帰りの小
学生が目の前で遊んでいる。
 これも車があまり通らなくなったからこそ見える風景だ。バスが通らなくなっても私は幸せで
あった。