赤いウインナー

「あっ!お兄ちゃんがあたしのウインナーを取った!」
「だって、食べないから僕が代わりに食べてやろうと思って」
「違う〜!あたしの大好物だから一番最後に食べようかと思ったのに〜!」
 私と兄で喧嘩が始まると、
「これこれ、食べ物の事で兄弟げんかはやめなさい!お兄ちゃんも人の分まで食べない。宏子も
食べ物ぐらいでめそめそしない!分かった?」
と、必ず母が制止に入る。沈黙の後、家族はまるで何事もなかったの様に食事を再開した……。
(またこの夢だ……)
 平成17年。静岡県浜松市に住む主婦、石田宏子(58歳)は、最近こんな夢ばかり見るのだ。
 そもそもはと言うと宏子の兄が還暦を迎えるとの知らせを受けた日の夜からこんな夢を良く見る
ようになったのである。兄は普段は東京に住んでいるのだが、今回初めて宏子の家のある浜松
に来る予定になっている。宏子にとって10年ぶりの再会である。兄の再会と還暦祝いを兼ねて石
田家でささやかなパーティーを開くのだ。
 宏子が小学5年の時に両親が離婚し、兄妹も離れ離れで暮らしている。兄は父とともに東京の
家で暮らし、宏子は母とともに浜松にある母の実家で暮らしている。
 夫婦の縁は切れても兄妹の絆は強かった。もちろん両親も離れ離れになったもう一人の子供の
事は常に心の片隅にはあったそうだ。
と言っても東京と静岡。距離が離れすぎている。二人が会うことは長い間なかった。だから兄との
思い出は幼い頃の時しかないのである。必然的に宏子には兄というと【夕飯時に自分の分の赤い
ウインナーをいつも取られてしまった】という嫌な思い出しかないのである。
 そして宏子は今でも赤いウインナーを見ると兄のことが頭に思い浮かぶのである。
「赤いウインナーか……。最近はあまり見かけなくなったな……」
 宏子にとって赤いウインナーは、今でも好物のひとつであり、兄とのほろ苦い思い出であり、そし
て楽しい思い出のある食品だ。
 確かに宏子の子供の頃からウインナーソーセージは加工食品として存在していた。
 けど昭和20〜30年代のウインナーは一部の高級品を除けば、肉の割合が少なく澱粉(でんぷ
ん)等のつなぎが多く含まれた代物であり、さらに冷蔵技術が今より発達してなかったので、日持
ちをさせ、見栄えを良くする目的で食品添加物をふんだんに使用し全体を【化粧】された食品であ
った。それは現在の商品と比べて決していい品質ではなかった。けど本物の肉を買うよりは遥か
に安かったので、庶民の安価な畜肉加工品として広く使われていた。
 東京都品川区。石田家では宏子が小学生の頃から赤いウインナーを食卓に出していた。けどそ
れが夕飯の献立に登場するのは毎日ではなく、月に2.3回くらいであった。
 今では考えられないかもしれないが、昭和30年代の食糧事情は戦後の混乱期から抜け出して
暫く経った頃であるので、終戦直後よりは改善されたものの概して良くなかったのである。
 主食の米は今よりは安くなく、せいぜい野菜類や一部の魚介類は価格的には安かった程度な
ので、一般庶民は麦などを混ぜたご飯に味噌汁、副菜に魚や漬物といった感じが普通であった。
もちろん肉はまだまだ高価な食材であった。そのためか加工品であるハムやソーセージ、コロッケ
等がたまのご馳走として食卓に上がる程度であった。
 勿論宏子の家でも御多分に漏れず、ウインナーはめったに食卓に上がらない【ご馳走】だった。
ウインナーが夕飯のメイン料理の日は兄も宏子もとても喜んだ。けれど、いざ夕飯になると二人の
希望が萎縮するのである。
 ちゃぶ台の中央にはドーンとウインナーが山盛り!……ではなく、代わりにちゃぶ台の中央に鎮
座するのは山盛りの白菜の浅漬け。そして各人の席の所に小皿に2本ずつウインナーがちょこん
と置かれてるのである。つまり白菜の浅漬けが夕飯の主役でウインナーが脇役なのである。
けどそのウインナーこそが子供にとっては魅力的な料理なのである。運悪く宏子は兄と隣同士に
座っていて、宏子は食が遅く、一方兄は早食いなのである。だからこそ冒頭にあるような、【宏子に
とっては熾烈な争い】が連日繰り広げられたのであった。
そんな兄弟の争いは突然終わりを告げた。
宏子が小学5年生になったある日、母から、
「宏子ちゃんは赤いウインナーが好きなんだね。秋になったら好きなだけ食べられるようになるん
だよ」と言われた。
 勿論本当のことは宏子自身わからなかったが「ウインナーが好きなだけ食べられる」という目先
の特典に目が行ってしまい、思わず「ホント?!そうなったら嬉しいな!」と喜んだ。
 秋。宏子は母と、兄は父と別々にハイキングに出かけた。出掛けに宏子は
「帰ってきたらお土産交換しようね!」と約束をして出発した。
 二人は品川駅に着いた。母は宏子に
「これから電車に乗って行くけど、長い時間車内で騒いだり駆けたりしないでね。お菓子と弁当と
茶は買ってあるからおとなしくしててね」と忠告された。
 実は宏子にとって初めての電車の旅であった。車窓から広がる見たことのない景色が延々と続
くのだろう、と発車する前からわくわくした。
品川駅8時8分発の浜松行き普通電車。宏子にとってこの電車が今まで住んでいた町とお別れす
る電車とは全く予想すらしてなかった。
 電車に乗ること数時間。母は電車から降りる気配もなくただ黙々と文庫本を読んでいる。宏子は
不思議に思った。けど(電車に乗る=ハイキングの一環)だと解釈して別な意味で納得していた。
 午後1時18分。電車は浜松駅に着いた。改札を出るなり宏子にとっては知らないおじさんとおば
さんが二人を待ち迎えているかのように立っていた。
 その二人を見るなり母はおばさんに泣きついてきた。一人ぽかんとする宏子におじさんが、
「ヒロコちゃん!大きくなったね!……」
 何が起きているのだかさっぱり判らないまま宏子は母と車に乗り、大きなお屋敷に案内された。
 全く真意を得ていない宏子を見かねたのか母が、
「今日からここが宏子ちゃんの家になるんだよ。学校もこの家から近所にある学校に通うんだよ」
とささやいた。間髪をいれずに宏子は
「じゃあ、あの家は?私のおもちゃは?それよりもお父さんとお兄ちゃんは??」母に矢付き早に
質問した。しどろもどろになりながらも母は、
「あなたの荷物は小包で送られてきます。お父さんとお兄ちゃんの事は安心しなさい。しばらくの
間離れて暮らすことになったの。兄には私がきちんと説明してきましたから」
それでも事情が飲み込めない宏子は(以前の小さい家よりここのほうが大きくていいや)と何とな
く納得した。本当の理由もわからないまま宏子は浜松の母の実家で暮らす事になった。
 母の実家は母の父が市議会議員をしているため、比較的裕福な暮らしをしていた。その為か、
宏子の念願だった赤いウインナーは毎夕食卓に出された。それだけで宏子は満足だった。
 最初のうちは慣れない地方都市での暮らしや学校生活に多少困っていたが、だんだんと浜松で
の生活に慣れていった。
 宏子が【夫婦が離婚して父が自宅に留まり母は実家に戻った】という本当の理由を知ったのは
彼女が中学に入ったときだった。以前から両親の仲が悪いのは子供心に薄々判っていたが、まさ
か現実にそうなるとは夢までも思ってなかった。
 更に母から聞いた話だが、兄も父から「これからは赤いウインナーを独り占めできる」という触れ
込みを聞き、何となく父と二人で住む事を納得させられたらしい。兄も何ヶ月かは真意は判らず、
母と妹が家に帰ってこなくなってからは、暫くの間妹の事を思うと枕を濡らす日々が続いたそうだ。
 時は流れ宏子は高校生になった。高校では給食がないので皆弁当を学校に持参する。宏子は
裕福な家に住んでいるので弁当箱の中には毎日赤いウインナーが入っていた。
 片や他の生徒は農家の子が多いので、概しておかずが少なく質素な弁当が大半だった。同級生
が宏子の弁当を覗くと、
「いいな〜宏子の弁当には赤いウインナーが入ってて。あたしのは佃煮と焼き魚だけだもん!」と
ねたまれた。当時は今のように簡便な冷凍食品やレトルト食品がなかったので、大抵はあり合せ
のおかずや夕飯の残り物や常備菜などが弁当に入ることが多かったのである。
だから宏子の弁当は一般的な生徒から見れば憧れの弁当に見える。宏子も鬼ではないのでたま
に弁当のおかずを交換したりしていろいろな味を楽しむ事もあった。けど多くはクラス仲間から羨
望の対象になっていた。
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