「海を守る男」
 
 平成16年・夏。
 東北に観光で訪れた渡辺さん一家。両親と祖父それに子供と言ういわゆる3世代家族である。
 前日新幹線で仙台を降り市内観光した後、仙台市内西部の山あいの温泉で一泊した。
 一家は翌日の午前中、塩釜と松島を見物した後、列車で小さい港町がある終点の駅に到着し、そ
の駅からタクシーで20分位の所にある岬に向かった。
 住宅地を抜けると一面松が生い茂る林に変わり、そこから細い一本道が岬まで伸びている。
 この岬は今では整備され灯台のあるちょっとした公園になっていて、たまに観光客が訪れる隠れ
た名所になっている。
「御父さん、今日は海がきれいですね」
 父の渡辺信一郎は岬に着くなりこう言った。
「そうじゃろう。ここは昔から波も穏やかだったから……」
 信一郎の父、義男は答えた。今年で68歳になるが年の割にはまだまだ元気で、近所にある知人
の経営する釣堀で受付等の仕事に従事している。
「おじいちゃん。ここの灯台は大きいね!」
 信一郎の息子で4歳の海斗(かいと)が灯台を指差しながら叫んだ。
 義男は、かつてこの町で灯台守として約10年勤務していたのだった。義男の眼には当時の灯台の
姿がよみがえり始めた。
「そうだよ。おじいちゃんは今からかなり昔に海上保安庁で働いていたから、ちょっとの間だけだが、
この灯台でも働いていたのだよ」
 義男がそう言い終わると、すかさず海斗が、
「おじいちゃん、『かいじょうほあんちょう』って何?」と尋ねて来た。
 義男は(確かに子供では分からなかったかな)と思うと改めてこう話した。
「海上保安庁は、海の上での警察と同じ仕事をしているのだよ。船と船がぶつかった時は原因を調
べたり、海でおぼれている人がいたら助けたり、外国から来た悪い船を捕まえたり、灯台が正しく動
いているか点検したりしていたんだよ」
 海斗は、祖父の話が分かったのか、
「ふーん。おじいちゃんはえらいんだね」
 と言った。義男は、おぼろげながらでも我が孫に自分が働いていた仕事を分かってくれたか……と
思わず感激してしまった。
 義男は本当はこの岬には来たくなかったのである。けど初孫に自分の仕事を知ってほしい、そして
願わくば自然の雄大さを感じてほしいという気持ちが強かった為渋々了承した経緯がある。
 それは義男にとってこの灯台には「ほろ苦い思い出」があったからだ。
 それはこの物語を読むにつれて明らかになるだろう。
「ママ、おじいちゃんはここでお仕事をしていたんだって!」
 海斗は東屋に座っている母・美佐江にこう話しかけた。
「御義父さん、昔は灯台守をしていたのですね!私は今日初めて聞きました。灯台守なんて本当に
ロマンあふれる仕事ではないですか!昔の映画にもありますし」
 美佐江は尊敬の眼差しで義男を見ている。しかし義男は嫁に褒められてもそれほど嬉しくはなか
った。それよりも過去の思い出の方が強かった。
「ここは以前官舎があった所……自動化の際の記念式典に行った時にはまだ残っていたのに……」
 そう思い東屋の椅子に腰掛けると、柱の隅に【平成2年3月吉日落成】と刻まれている。
「そうか……岬を公園として整備する時に、不要になった官舎を取り壊したのか……」
 義男は思い出がまた一つ無くなってしまい、少し複雑な気持ちになった。

……東京にある海上保安庁本部で勤務していた俺が、急遽灯台で勤務する事に決まったのは昭和36年3月の事だった。
宮城県にある灯台に勤務していた社員が病に倒れ、至急後釜が欲しいとの要請が本部に入り、急遽人選の会議が開かれ
た。その結果、仙台出身で経験も浅く、入社以来内勤ばかりしていた俺にどう言う訳か白羽の矢が立った。俺は最初のうち
は拒否したが『外勤も勉強のうち、今のうちから太平洋の荒波に打たれて来い』と上司に揶揄(やゆ)され、補充要因は率な
く決定し、俺は半ば強制的に東北行きと相成った。
  3月31日、俺は本部で引継ぎ書類を渡し、転勤辞令と赴任地で使う書類を貰った。そして独身寮にある僅かな家財道具
を風呂敷に包み、上野駅へと足を運んだ。
  〔20時50分発 東北本線各駅停車 青森行き〕15両の長い客車を牽引する蒸気機関車がさも風格ありげに12番ホーム
に鎮座している。
  俺は駅弁と茶(瀬戸物でできている器に店の人が熱い茶を入れてもらえる)と酒を買い込み、青森行きの列車に乗り込ん
だ。さすがに年度末だけあって東北方面に転勤となるサラリーマンが比較的目立っている。部長クラスやいわゆる「栄転組」
はこれより遅くに発車する急行「津軽」「おが」「出羽」「松島」などの軟座席や寝台で赴くのである。
 (俺のような下っ端は各駅停車の堅い座席に揺られながら北へと向かうのか……。)
  そう思っても仕方ない。座席を確保し酒を飲みはじめると、列車は汽笛を勇ましく鳴らすと、上野駅を滑るように走り出し俺
の乗った列車は、一路北へと向かった。
  翌朝、列車は仙台の駅に到着した。そこから仙石線(せんせきせん)・石巻行きの一番電車に乗り込んだ。
  仙台の町を抜けると車窓は一気に開け太平洋が見えてきた。まだ夜が明けていないが、うっすらと船の明かりが見える。
  石巻駅に着き、さらに別の列車に乗り込み約30分。7時半前に南三陸の小さな駅に俺は着いた。
  駅前の細い道を少し歩くとすぐ海にたどり着いた。海岸沿いの道路から、果てしなく続く水平線を眺めながら、
「本当に何も無い静かなところに来ちまったんだな……」
  とつぶやいた。
  その時港から見た真っ赤に染まった朝焼けの美しさは40年以上たった今でも忘れられない。
  海の美しさに見とれていると作業着を着た50歳くらいのおじさんが近づいてきた。
  「渡辺さんですか?」
俺は、「はい、そうですが」と答えた。
  彼は俺がこれから行く灯台に10年も勤務する所長で、名前を前田といった。
  俺の顔を見るなり前田さんは精一杯歓迎してくれた。
  (ああ、こんな俺でも心温かく迎えてくれるのだな)と感じた。
  前田さんに東京から預かった書類を渡すと2人は車に乗り込んだ。港から離れると次第に家が少なくなり海と山ばかりに
なってきた。道はやがて砂利道に変わり獣道(けものみち)みたいな道路に変わっていった。
  港から30分くらい乗っただろう。急に視界が開けると、俺が今まで見た事のないくらい大きな灯台が見えてきた。
  「なんて大きな灯台なのだろう!」
  俺はその時この灯台の雄大さを心の底から感激した。
  都会ではまず見ることのない大きな灯台。そして300°海に囲まれた岬。俺はこの灯台のある岬を大変気に入った。
すると前田さんは灯台に立ちよらず、灯台の脇の道を通っていった。
  彼の後を追いかけると、そこには意外にも【生活の場】があった。
  灯台の脇に、官舎と言う名の小さいながら小奇麗なアパートと小さい畑があった。どうやらここで住み込む為のアパートと自給
自足用の畑なのだなと薄々感じた。
 前田さんはアパートに住んでいる人を呼び出した。すぐに5人の男女が俺の目の前にやってきた。
  「今日からここの灯台の勤務になった渡辺義男君だ」
  と紹介された。俺は緊張しながらも挨拶をした。この灯台に住む家族は俺を入れて4世帯。所長の前田さん夫妻のほかに、
牛島さん・川上さんの各夫妻。すると独身なのは俺だけか……と一瞬思った。どうやら灯台守は夫婦で各灯台に赴き(当時は
単身赴任の制度が無かった)場合によっては各地の灯台を数年単位で転々と赴任するそうだ。
  一通りの紹介が終わると、俺は官舎の空き部屋に案内された。前田さんは、
「ここが今日から渡辺の部屋だ。風呂は共同で使え」
  前田さんに教えてもらうと、彼は部屋を後にした。やれやれと思い腰を下ろすと、部屋をざっと見渡した。6畳と4畳半の部屋に
台所と便所。灯台なので電気は通っているのが幸いだった。まあ、水道は簡易式の物だが……。
  思ったよりきれいな部屋だった。俺は6畳の部屋に荷物を置くと、旅の疲れもあり畳の上でしばしの間寝転がっていた。
  しかし5分もしないうちに、
 「おい、渡辺!身の回りの整理が終わったら灯台の前に来い!」
  前田さんの叫ぶ声が官舎中に響く。