第6節 恋はあせらず
 岡村兄妹にとっては麻布が丘高校での2日目の朝、2人は初日と同じ時間に学校に向かう。
さすがに金持ち高校だけあって親の車で通学する生徒もいる。高級車が高校の正門に止ま
り、生徒が車から降りる。一台走り去ると間を置かずもう一台、そしてまた一台。その車の全
てが数百万円するであろう外車だ。
 もちろん電車や徒歩で登校する人もいるが、10人中10人が高級ブランド服を着こなしてい
る生徒だ。どこから見ても金持ちの子というのが一発で分かる。
「……すごい……」
 沙奈は感嘆の余り次に続く声が出なかった。北海道の片田舎で暮らしていた為、東京の
山の手地域にある麻布が丘高校で現実に繰り広げられる情景は、沙奈にとっては正に【映
画やテレビの中の世界】であった。
「私達はこんな高校に入ったんだ……」思わず溜息をついた沙奈に、
「僕もそう思う。けど編入してきた以上はこの校風に溶け込めるように自分から変えなくちゃ」
すかさず悟は励ます。
「そうだね。初日から友人が出来たし、何とかやっていけそうだね」
 2学期が始まったばかりなので授業もそれほど難しくはない。1学期の復習と余談が主で、
北海道での高校と同じくらいかそれよりも低いレベルではないか。
(思ったより簡単だな)悟の頭の中に楽勝ムードが漂い始まる。
 悟の脳裏に【楽勝丸】と描かれた船が現れ、麻布が丘高校という名前の湖を曳航している。
雲ひとつない快晴で穏やかに湖上を進む。しかし晴天は長くは続かず厚い雲に覆われる……
「……48ページの一行目から朗読してもらいましょう」先生の声がしてくる。
(教科書の朗読か)と上の空で聞き流していると、
「それではまずは岡村君から!」
 突然の出来事に脳裏の【楽勝丸】が荒波に揺られた。
「……エート、何ページでしたっけ?」
「48ページだ。お昼休みはまだ先だぞ。岡村君」
 静かな教室のあちこちから、かみ殺しきれなかった笑い声がしてくる。
「早速笑わしてくれるじゃねーか」と幸親の弾んだ声。
 教室内の笑い声が収まるのを待った後、悟は気を取り直して、
「翌朝、眩しい朝日で目覚めた。新宿の真ん中ではあるが……」と朗読をはじめた。
 読み終えた直後(やはり授業を甘く見てはいけないな)と反省した。
 昼休み。金持ち高校だけあって、クラス全員豪華弁当を持参してくるのかと思いきや、弁当
持参者は半分以下で、たいていの生徒は学食や購買に行っている。
 実は悟もその一人で、北海道にいた時から昼食は弁当を持って来ないで、学食を食べ続け
ていたのだ。もちろん育ち盛りの男の子なので、弁当だけでは物足りないという事情もある。
 校内の様子がまだつかみ取れない状態だが、生徒が足早に向かう方向を進んでいけばい
い。目的地はたった一つ、学食だ。金持ち高校ということだけあって、メニューも浮世離れし
た【松花堂弁当 壱千円】とか【幻の名古屋コーチン使用の親子丼】とか言った物はなく、ど
こでもあるありきたりの物ばかりなのが救いだった。ただ単価は北海道の高校よりはやや
高めだったが、東京という地理的経済的事情から考えたら仕方ないのかもしれない。
 メニューのPOPに惹かれて【ボリューム満点定食】を選んだ悟。
 すると沙奈もやってきた。北海道のときはめったに学食を使わず購買のパンで済ませていた
が、やはり【金持ち高校の学食はどんなものか】という好奇心で訪れたのであろう。
「昨日の新入生だ!」
 学食内にひときわ目立つハスキーボイス。相変わらず空気を読みきれていないイケメン、安
達佳宏だ。彼の間を挟むように2人の男子生徒が座って2人を見ている。
 一人は背がやや低く、髪は短く切っている。他の生徒とはやや趣が異なる凛とした顔立ちだ。
ぱっと見た感じ体育会系にも見える。そしてもう一人はサラサラヘアーで甘いマスクの美少年タ
イプだ。背も高くて女子にもてそうな要素を幾つも備えている。2人とも佳宏の友人なのか?
「あの子知ってる!昨日アヤさんの後ろでずっと見つめていたでしょ!」
 沙奈が嬉しそうに叫んだ。2人がもじもじしている所を見ると、どうやら図星らしい。
「この話は後で男たちでじっくり語り合おうではないか」佳宏が機転を利かせ話題を反らすと、
「じゃあ、ここに私がいたらお邪魔虫になるから消えるね!」
 沙奈は結局何も食べずに学食を出た。本当に学食見学であった。
「そう言えば自己紹介がまだだったな。僕は岡村悟。そしてさっきの子が妹の……」
「サナちゃんでしょ。昨日教頭が話していたから。いい名前だからすぐに覚えた」
 2人は声をそろえて答えた。さすがは男である。女の子に関する情報入手能力は鋭い。
「岡村君はじめまして、僕は鈴原圭(すずはら けい)、野球部でピッチャーをしてるんだ」
 短髪の子はかなり神経質そうな感じだ。一方、美少年は予想通りの透き通った声で、
「僕は諸星博樹(もろぼし ひろき)って言うんだ。よろしくね」
 圭とは逆に妙になれなれしい。悟は一瞬オカマが入っているんじゃないかと疑ったりもした。
まあ極端に威圧的な人や強面の人に比べればまだマシかなと思った。
 3人は中学生時代からの友人で、佳宏の親の計らいで、ずっと今の学年まで同じクラスにし
てもらったくらいだ。佳宏にとって圭と博樹は子分であるとともに相談相手でもある。また圭に
とっては2人の恋人のおこぼれをもらえる大事なパートナーであり、博樹にとっては中学時代
にいじめから救ってくれた恩人でもある事から自らの保身の為の助っ人である。まあ端から
見ると佳宏のコバンザメや金魚の糞とからかわれているがそんな事は気にならない。
「自己紹介が済んだ所で本題だ。実はこいつらが事もあろうに、B組の千代田彩華ちゃんを
去年からずっとぞっこんなんだ」
「そうなんです、佳宏君……。君が以前彩華さんと付き合っていた時からずっと好きでした」
 まるで一昔前の青春ドラマみたいだ。しかし古今東西津々浦々未来永劫この地球上に男と
女がいる以上永遠のテーマである。
 今日までは彼女の後姿を指をくわえながらじっと見ていたのであるが、これからはもっと積
極的にアタックしたい!という事なのだ。
「ほら。この子がB組の千代田彩華ちゃんだ」
 佳宏は悟に2ショットで写っているプリクラを見せた。本当にこの学校にいるのが不思議なく
らいの美少女。ルックスもスタイルも抜群で雑誌のグラビアに載っている子と負けずに劣らな
い。悟にとっての【美女ベストテン】に堂々ランクインできるレベルだ。
「いきなり告白しても相手にされないかもしれない、かといって付きまとうのはよくないし」
 なんとも弱弱しい台詞だ。恋愛には無骨そうな圭が言うのならともかく、見るからにイケて
いて女には不自由していないだろうと思われる博樹ですらこのような状態なのだから、いか
に千代田彩華の美貌が男たちにとって難攻不落なのかが伺える。
 悟にとって圭と博樹の姿がまるで、貧困に苦しんでいる農民がお代官様に直訴をしている
ようにも見える。たしかに過去一時期とはいえ男子の羨望の的の千代田彩華に付き合って
いたというから、2人は佳宏に僅かなコネを頼りにしているのだ。4人は沈黙した。
「僕が思うに、いきなり突っ走らないで最初はあせらず、『3人で付き合いましょう』という段階
から始めてみては?」悟は当たり障りのない回答をした。
「そうか……やはりそれしかないか……」圭は溜息をついた。
(まてよ、沙奈のさっきの言葉……ひょっとして……)冷静に考えたらなぜ昨日2人が彩華を
じっと見つめていた事を知っているのか?と不思議に思った。
「ちょっと待った。もしかしたら妹が千代田さんの事良く知っているかも。同じクラスだし……」
「うまくいくかも!」
「悟君、今日の話サナちゃんに相談してみてよ。お願いだ」
 きっと圭と博樹は悟の顔がキューピットに見えるのかもしれない。
「ああ、分かった。ダメモトで聞いてみるよ」
「お願いします!いつか食事をおごるから」
 3人とはクラスが違うが絶妙なバランスのトリオといった雰囲気がするので僕と息が合いそ
うかな、と思った。この約束によって悟と沙奈の高校生活が華々しくなるきっかけになるとは
今の段階では想像すらも出来なかった。
【続く】
※文中に登場した教科書の文章は、拙作【夕焼け酒場】より引用しました。