第10節 溺れた幸親

「少し早いけど、今月の給料を渡しておこう」
 村崎さんは奥の部屋から給料袋と電卓を持ってくると、給料を計算し、レジに入っているお金
から何枚かの紙幣を袋に入れ、悟に渡した。
「いつもは用意して置くんだけど、今回はちょっと準備に間に合わなかったので……袋に入れ
ただけだけど構わないかな?」
 悟は、金さえきちんともらえば大丈夫な性格なので、了承した。
(いつもながら結構多いな……)
 少し前から悟が不思議に思っているのだが、平日週3回の3時間、日曜日は6時間のバイトで
ありながら、給料が8万円程度なのだ。その事について質問しても、
「君はいつも一生懸命働いているからだ」としか言ってくれない。まあ金はあるに越した事は無
いので(それならそれでいい)と思っているのだ。
 実はここにも裏があり、この店は、元は佳宏の親の所有物であり、地代と家賃を毎月安達家
に支払っている。しかし建物の老朽化とか勝手に理由を付けて家賃を値下げする代わりに、喫
茶店で働く従業員の給料に回すように指示されているらしい。
 勿論この話を佳宏が片足突っ込んでいるのは言うまでも無い。
 無論この事は悟には秘密にしている。喫茶店パープルで働かせるのも始めから佳宏が仕組
んだものである。
 なぜなら、悟が学校の教室で「金が無いから遊べない」とつぶやいているのを同級生の幸
親が時折耳にしたため、同じグループ内の圭にそのことについて相談したところ、
「バイトさせれば?うちの学校はバイト自由だから」
 との答えが出た。更に、どうせ働くなら皆知っているパープルがいいと圭が提案したのだ。
 その提案に佳宏が同意し、この店自体安達家からの貸し物件である事と、高値の家賃を支
払ってもらっている事実を提示した。そして、
「オレたちと遊ぶには金がいるからな!」
との佳宏の一言。そこから話が発展し、友人のよしみで何とかバイト代を上乗せしてもらえな
いか、としきりに村崎さんに陳情した結果なのである。もっとも皆も知っていて佳宏が顔なじみ
の店がパープルしかないと言うのも事実だが。

「さて、給料をもらった事だし……」
と言いながら店を出ようとした矢先、突然電話のベルが鳴った。パープルは平成の時代であり
ながら、今だにダイヤル式の黒電話を使っているので、あのけたたましいベル音が店中に響く。
 村崎さんは受話器を取った。
「伊勢さんですか?はい。私の知人ですが……えっ!入院……ですか!?……」
 村崎さんの顔色が急に変わった。それに気づいた悟は電話の応答をずっと聞いていた。
 どうやら電話は病院からで、幸親が入院したと言う事らしい。
 通話を終えた村崎さんは、
「伊勢さんが急性アルコール中毒で千代田総合病院に緊急入院した」との事。
「えっ!急性アルコール??今すぐ行こう!」
 急の出来事だが、友人が一大事なのは分っている。けど千代田総合病院の場所を知らない
ので、村崎さんに聞くと、
「広尾にある病院で、あなたの友人である千代田彩華さんの親が理事長をしている。私は何
回か行った事があるから、一緒に行こう」
 と言うと、村崎はさんは店のドアに【閉店】の札を吊るし、鍵をかけると2人は広尾に向かった。
 千代田総合病院。彩華の親が運営している病院と言う事で予想通り大きい。受付で幸親が
どこに収容しているかを問い合わせると、ICU(集中治療室)との事。思ったほど容態が悪く一
般の人の入室は禁止されているとの看護師の言葉。
 2人は待合室で容態が回復するのをただただ待つしかなかった。
 1時間経ってもまだ連絡が来ない。
 悟は家に電話して、病院にいる事と、今の状況と、帰りが遅くなる旨を伝えた。
 3時間後の午後9時、ようやく医師団が2人の前に来た。
「緊急処置として胃洗浄及び心臓マッサージを行った事によって、伊勢さんの容態は先ほど危
機的状況を抜け出し、現在は意識も回復しています。念のため今日一日ICUにて安静させ、翌
日状態を見て一般病棟に移す予定です」と言われた。
 とりあえず安心と言う事で、夜も遅いと言う事で2人は病院を後にした。
 翌日の学食。
 夕べ、妹の沙奈には昨日の事をざっと話したが、他のメンバーにはまだだったので、全員揃
っているのをいい機会に、改めて幸親の現状について説明した。
 皆、言葉には出さなかったが動揺しているのが分かる。特に彩華の親が運営している病院で
ありながら、その事実を知らなかったと言う事だから、彩華が一番驚いていたのが印象的だ。
 しかし、あれほどクールだった幸親にも耐え切れないほどの〔何か〕があったに違いない。
 
 相談の後、悟と彩華と圭で病院に見舞いに行く事にした。
 その日の放課後、千代田総合病院の一般病棟。
 幸親の状態はまだ良くないが、話をする事は何とか出来る。
「皆に迷惑かけて済まない。親父は、知っているかもしれないがあの事件で逮捕され、近いう
ちに起訴されるらしい。そんな姿を見ていると、俺は情け無く、そして悲しくなってしまった。つい
つい以前やめていた酒にまた手を出してしまい、溺れてしまった。気がついたら一升瓶を持った
まま倒れてしまった……。それに気がついたお手伝いさんがこの病院に電話をして、緊急入院
させてもらった。事が事だけに、特別に偽名で入院が出来る千代田病院に入れてくれ、学校に
も連絡しなかった」
 見舞いに来た3人は、幸親の言葉を噛み締めて聞いている。事情が事情だけに仕方ないと言
う気持ちと、可哀想な気持ちが重なり合い、どうしようにもできなかったと言う心情が分かる。
「……やっぱり俺もまだまだ半人前だと思ったよ。皆の前では冷静に、かつ物事に慎重に振舞
っていたが、何か身に降りかかってしまうと、うろたえて自分から逃げるために、ついつい酒に
走ってしまう……。まだまだ俺は意思が弱い男だと……」
 珍しく男泣きをしている。けどその姿を見て(やはり幸親も人間だ)と皆思った。自分の信条を
表に出す事が苦手で、どうしても自分の内側に溜めてしまう……。
「伊勢君は全然ダメな男じゃないよ。突然わが身に事件が起これば、誰だってそうなってしまう
ものだし……むしろ自暴自棄になって問題行動をしなかっただけ立派だよ」
 圭がそう言って励ました。
「ここでしばらく頭を冷やして反省するさ……いつか皆に恩を返すように頑張る。岡村君には
またちょくちょく家に出入りするかもしれないけど、こんな俺でよかったら暖かく迎えておくれ」
とにかく大事に至らなかっただけでも良かったと思った。

 12月の始めに幸親は学校に復帰して来た。普段と同じような特徴のある声で、
「ずっと俺の事を心配かけてくれて、そして病院に見舞いに来てくれて本当に感謝してる。今日
から一から出なおす気持ちでいる。皆ありがとな!」
 言葉は多くは無かったが、元気そうで何よりだ、とグループの面々は思った。
【続く】