第3節 みんな知っていた

 六本木の喫茶店か……。悟は新しいバイト先についてをあれこれ想像した。
 東京の六本木と言えば【銀座・赤坂・六本木】と言うくらいの一等地だ。きっと高級そうなファッション
の店やおしゃれなブティックなどが所狭しと並んでいるであろう。そんな中にある喫茶店と言うくらい
だから、多分テレビのドラマなんかにも出てくるようなしゃれた店に違いない。
 しゃれた店と言う事なら、きっと友人も知っているはずだ。
 翌日の休み時間、悟は幸親に尋ねてみた。
「六本木にある、【パープル】という名前の喫茶店、知っている?」
「ああ、あそこは俺もよく使っている。あそこは居心地がいいからついつい長居してしまうんだよな!」
 居心地がいい……どことなく遠くを見ているような幸親の顔を見ると、何となく雰囲気が分かるよう
な気がした。
「けど、なぜいきなりそんな話をするんだ?」幸親の目が鋭くなってきた。
(僕が何か気に触る事でも言ったのかな)と思っていると、
「いや、あの……別になんでもない。ただ俺にとってあそこは特別な場所だから……」
 なんとなくバツが悪そうな言い方をしている。きっと何かあるのかと思ったが、余りあれこれ詮索す
るのもいかがなものかと思って、無理に追求しないで居た。
 その話を聞いたほのかが近づいてきて、
「あの店の話ね!あたしもたまに行くよ、なんてったってマスターが気さくだからまた行きたくなるん
だよね!」
 そのほかの同級生の話を聞いてみても、いい印象を持っている。しかもグループのメンバーがご用
達なのだ。
 多分誰かがマスターに僕たちの事を話に出しているのかもしれない。
 こうなれば喫茶店のマスターともすぐに話がつき、即採用と言う運びになるであろう。
 その日の夜、沙奈にも話した。
「六本木の喫茶店ね。確か少し前にテレビのロケを見てきたのも、六本木の喫茶店だから、きっと
そこじゃない?店名までは見なかったけど、入り口にウッドデッキがある小奇麗な店だったよ」
 もしかしたら沙奈達が行った店がそうかも、と思った。とにかく六本木は悟にとっては未知の町で
テレビなどで得た情報しか頭にないのだ。

 日曜日。佳宏が書いてくれたメモを見ながら六本木界隈を歩いている。地図では麻布が丘高校
からの道順が書かれていたので、それを参考に辿っていった。途中までは通学と同じなので分か
りやすい。ただ学校から六本木方面に行くのは初めてであった。
 やはり男にとってはファッションの町のイメージがある六本木や銀座は敬遠しがちだ。尤もファッシ
ョンにはそれなりに気を使っているが、ン万円という金を洋服のために使うと言う事自体、頭の回路
にはじめから無い。
 六本木通り霞ヶ関方面に進み、細い路地の入り口に喫茶店【パープル】が建っていた。
 しかしその様相は悟の想像を超えていた。六本木と言う町のイメージからおしゃれで綺麗な店か
と思ったが、それを見事に裏切ってくれた。
 近代的なビルが立ち並ぶ六本木に、ここだけが昭和三十年代の空気が漂っている。
 木造2階建て、電気の配線もむき出しのまま、まるでこの建物だけが時間が止まっているかのよう
だ。ただ看板だけは味わいのある銅版で出来ていて、綺麗に光っている。
 ドアを開けると店内も昭和三十年代そのものだった。
 落ち着いた照明、天井では羽だけの扇風機がゆっくりと廻っている。下に目を移すと年季の入って
いるのがすぐに分かるカウンター、磨きがかかっている椅子、表面が磨り減って時代を感じさせられ
るテーブル。そして壁には、相当前に張られていて黄ばんでしまっている有名人のサイン入り色紙
や力士の手形……。その中で佳宏の母でもある、安達麻紀さんの色紙だけが何枚も張られている
のが妙に印象的であった。
 店内のどこを見ても数十年間の歴史が刻み込まれている。
 カウンターを見ると、さっきまでは気が付かなかったのだが、50歳くらいの男の人がニコニコしなが
ら珈琲豆を煎っている。
 悟の姿を見るなり店主は、
「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりでしたなら遠慮なくどうぞ」
(客としてここに来たんじゃないのに……)と思いつつ、
「あのー、ここでアルバイトを募集していると友人から聞いてきたのですが……」
 人のいいおじさんのように見えたが、バイトの話になると何となく緊張してしまう。
「安達さんのご友人ですね。話は聞いております」
悟は「そうです」と答えた。まずは第一関門突破だ。
「当店では人手が足りないので、誰か手伝ってくれる人がいないか困っていました。あなたは見
た感じ明るくさわやかそうだし、客の接し方を少し訓練すれば十分仕事が出来るみたいですね」
「一生懸命頑張ります。お願いします」
 悟は店主に向かって頭を垂れた。
「ハハハ、そんなにかしこまなくていいよ……。よし、採用だ!」
「ありがとうございます!」
「そうとなれば、この紙に名前と住所と連絡先を書いてください……。それと私の名前は村崎と言い
ます。贔屓の客からは【村ちゃん】とか【村さん】と呼ばれていますので良く覚えてください」
 勘のいい悟は〔村崎→紫→パープル〕というのがすぐに分かった。多分この店が開店した頃は〔パ
ープル〕なんて英語を使った店はあまりなかっただろうから、かなりモダンな店名と言う事で連日にぎ
わっていたであろう。さすがに今となってはモダンとは言いがたくなってしまったが。
「岡村さんですね。それでは今日からこの店で働いていただきます。君の友達も含め、東京に住む
有名人の大半はうちを気に入ってくれています」
「そうなんだ。だとしたら時々有名人も来るのですね」
「もちろんです。だからこそ言葉遣いは丁寧にお願いします」
 あらあら、地味な店だと思ったけど、実は凄く高尚な店だったんだ。少し心配になったが金のため
には仕方ない、と思った。
「じゃあ、早速だが、この珈琲を2階の奥の個室にいる人に運んできてくれないかな」
「わかりました」
 年季の入った階段を上がり、2階に上がった。まるで昔のアパートのような狭い通路だ。悟は奥の
部屋に入った。
「お待たせしました」
珈琲の注文者は何と幸親だった。偶然この店に立ち寄ったのか。それとも悟の仕事振りを視察に
来たのか?けど目的はどうやら前者のようだ。
 何と個室でタバコを吸っていたのだ。
「誰かと思ったら岡村じゃないか……いいか、ここで内緒で吸っているんだ。誰にも言うなよ」
と小声で話した。

【続く】