玄関を開けると小学生位の男の子が、
「お帰りなさい!」と大声で駆けつけてきた。
山本さんは、
「私の長男です。私の夫は渋谷で電気工事の会社に勤めています。まだ帰ってこない時間な
ので、夫が帰ってくるまでの僅かな時間で恐縮ですが……」と怪訝そうに話した。
田村は(そうか……秋子さんも結婚して子供がいるのか……)と思い、少し残念に思った。け
ど旦那が帰ってくるまで一緒にいられる……と思うとなんとなく邪な気持ちさえもしてきた。
 2人で思い出話を語っていると、突然子供が割り込んできて、
「おじさん、袋の中にケーキが入っている!一個頂戴!」と元気のいい声でせがまれた。
 田村は恐縮そうに、
「これはお店のだから……」と言い出すと山本さんは、
「まあ、田村さんったらお店を経営しているの?!すごいじゃないの。今度お邪魔していいかし
ら?」と少し甘い声で話しかけた。
 そう言っている間にも、子供は田村が必死で抱えている袋を奪い、中に入っているケーキを
つまもうとした。
山本さんは
「あらあら、うちの子供が失礼な事をしてすみません。後でうんと叱っておきますから……」
と田村に気を使うような口調で言った。
 田村自身も、たまに自分の店にやんちゃな子供が来ることがあって、店内を騒ぎ立てる場面も
遭遇しているので、多少のことは気にかけないのだが、今回は少し訳が違う。
「ですからこのケーキは実は……」と言いかけたところ、田村の話を聞かずに子供は喜び勇んで
そのケーキを口にした。
その途端、
「ガリッ!!」狭い家に何かを砕くような大きな音がした。
 何とケーキはとても硬かったのである。食べようとした子供の歯が簡単に抜けてしまった。
 頬を押さえ涙をこぼしながら、
「何だこのケーキは?食べられないじゃないか!!」
と叫んだ直後、その子供は姿を消した。
 そしてしばらくするとさっきまでいた山本さんも姿が消え、煌々と点いていた部屋の照明が
突然消えた。
 真っ暗闇の中で目まぐるしく状況が変化する中で田村は混乱した。そして田村がやっと気
づいたときには、雑木林の中の廃屋に一人たたずんでいるのに気が付いた。
 雑木林の奥から狸の腹鼓の音がした。
(……そうか、狸の仕業か……)田村はそう思った。
 実は田村は浅草の近くにある合羽橋(かっぱばし)にある店舗道具店で自分が経営する
喫茶店の入り口に置くメニューのサンプルを購入した帰りであった。だからこのケーキも本物
に見えて実はロウでできた偽物だったのだ。
 いわば人間をだます狸が逆に人間の作った商品にだまされてしまったのであった。田村は
狸に悪いことをしたな、と思いつつも(少しの間だけでもいい思いをしてくれてありがとう!)と
感謝した。
 多分数ヶ月前に会った鈴木もきっと狸が化けたものだろうと田村は思った。
その翌日の宵、田村は子狸に悪い事をしたという思いから、昨日【山本さん】と会った更地の
一角に本物のケーキを置くと、内心ほっとした表情で家路へ向かった。
 田村の店に着く直前に田村の耳に狸の腹太鼓が聞こえてきた。雑木林の方に向かって、
「狸さんお元気で!」と礼を言った。
 さっきの腹鼓が前より盛大に聞こえてきた。多分昨日会った狸が答えてくれたのだろう。と
思った。
(これで昨日の無礼は帳消しになったかもしれない)と多少計算高く考えている田村であった。
 それと同時に狸の住む雑木林がだんだん住宅地になっていくのに不安と心配すらも思うよう
になってきた。けど田村はその事については意外と楽観的だった。
(林がなくなって住みかがなくなっても、きっと彼らはお得意の技でうまく生きていかれるかも?)
という考えが【経験上】あるからだ。
 季節は冬が過ぎ春になった。
 駅前に続く道の住宅用地に数件建設中の家があるのを田村は目にした。このあたりの林もい
ずれは確実に住宅地になっていくのだろうか。
 喫茶店を開業して1年になるが、田村は駅前通で鈴木や山本さんに会うことは2度となか
った。けどそれでも平気だった。
(あの二人にどんな形であろうとも出会えたのは狸が化けてくれたおかげだから……)と感じてい
るからだ。もっとも今でもいつか2人に会いたいという気持ちは変わらないのだが。
 今日も(今度あの時の狸が人間に化けて俺の店に来たら、おいしい珈琲とケーキをご馳走
したいな……)と思いながら店のカウンターで珈琲豆を挽いている田村であった。
【完】
参考資料:広辞苑 第5版 岩波書店
参考サイト:合羽橋道具街 http://www.kappabashi.or.jp/
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