21、宵 「宵の刻の出会い」
 宵というのは、辞書では「日が暮れてからまだ間もないとき」を言う。つまり夕方と夜の間を
指す言葉である。
 夕暮れと言うのはどことなく郷愁を感じるものである。夕焼けがその典型的な例である。
 日本人は夕焼けを見ると、故郷を、母親を思い出すという。それだけどこかノスタルジー
というか人をひきつけるものが存在するに違いない。
 そして太陽が完全に沈むと空がだんだんと暗くなる。橙色から紺色に変わり黒色にと、空
の色が変わっていく。
 その紺色の空の時間帯が【宵】になるのだろう。どことなく物悲しさと怪しさを兼ねそろえ
た雰囲気に包まれるのである。特に昭和30年代あたりはその【怪しさ】が顕著に現れて
いたのかもしれない。なぜなら当時は今と違って、狭い道路は舗装されていないし、家も
少ないし、外灯も少ない。ましては今ではあちこちにある自動販売機や24時間営業する
店がなかったので、夕日が沈むとすぐにあたりは闇に包まれていた。
 しかも郊外のススキ野原とか林とか田んぼ道になると当時は狐か狸に化かされるので
はないかと思う人も少なからずいたらしいのである。もっとも狸が本当に人を化かす事は
ないが、宵の魔力であたかも【化かされた】と思ってしうまう人はいたらしい……。

 昭和35年。東京の多摩地域。
 当時良くなかった住宅事情改善の目的で、都心に近い地域の田園や林を切り開いて住
宅地にする工事が始まった頃である。
 当時は都心の人口が多摩地域に流出していき、かつては自然が豊富だった地域が見る
見るうちに住宅団地として変貌していった。実際に多摩ニュータウンが本格的開発が開始
されたのが昭和45年なので、それより少し前の話である。
 田村勉、30歳。多摩地域の私鉄沿線にある駅から離れている住宅地で喫茶店を経営し
ている。喫茶店という店は駅前や繁華街にあるのが一般的で、住宅街で営業している喫茶
店は当時としては珍しかった。
 田村は食品関連の企業で解雇された後、退職金と貯金で自宅を改造して喫茶店にした
のである。
 外装や調度品は整い開店はしているものの、まだまだ開店して3ヶ月なので一部の内装
は整っていない。
 けれども、新し物好きな人や落ち着いた雰囲気を楽しみたい方が、連日田村の喫茶店を訪
れ、珈琲(コーヒー)の味を堪能している。
 とある夏の日だった。田村は埼玉に丸一日商用で出かけた帰りのことだった。
 最寄り駅に着くと夕日は沈む直前だった。いわば宵の刻の時間帯に入る頃合である。
「今日は疲れたな……」田村は駅を降りると徒歩10分くらいのところにある自宅への岐路
に着いた。それもその筈、朝から夕方まで珈琲豆の買い付けで業者を回っていたのだから。
「俺のやっている事は果たして間違ってなかったのか……もう少し我慢して会社に留まるべ
きだったかな……」
 疲れて帰るときはいつも【脱サラ】して喫茶店を開いたのが失敗だったのだろうか気になる
のであった。
 駅を降り100mも歩くと店や家は少なくなる。駅前通りと云えども、当時は外灯もないので日が
暮れると本当に暗くなる。
「このあたりはうす暗くて何となく気味悪いな……何か出そうな気ががするな……」
 人間というのは一度そう思い込むと、その呪縛からは抜けられなくなるのが心情である。
 どこからか人の声がした。
「お久しぶりです……」
 田村は耳を疑った。けど確かに人の声がする。しかも昔聞きなれた声がする。
「田村さん。お久しぶりです。以前同じ会社にいた鈴木ですよ。覚えていますか?」
 田村は振り向いた。薄暗くてはっきりとはわからなかったが、確かにこの体格、この声、顔つ
き。間違いなく鈴木だった。同期に入社したから、他の社員よりも親近感があった。
「おお、鈴木君じゃないか。こんな所で会うとは本当に奇遇だな。最近仕事のほうは順調?」
 田村は今までの疲れがどこかに吹っ飛んだ。以前の仲間と再会できた喜びか気持ちも高
まっている。
「まあぼちぼちだね。あのワンマン社長の下だから給料は相変わらずだが、まあ食っていけ
るくらいはもらってるよ」と鈴木は答えた。
 二人は道端で和気藹々と話していると突然、
「せっかくだから駅前の居酒屋で一杯やるか!」と言い出してきた。田村は夕飯はさっき済ま
してきたが少しは腹に入る。もちろん鈴木との積もる話もしたいし。
 宵が過ぎる頃には、二人は完全に出来上がっていた。勘定のくだんになり、鈴木は財布に手
をかけると、
「今日は俺のおごりだ。久々に話ができたから今日は俺が全部払う!」といい、勘定を済ました。
 店を出ると鈴木は
「それじゃあ僕は電車で帰るから。それではまたいつか会おう!」と言い千鳥足で駅の方へ
と消えていった。
(ああ、今日は久々同僚に会えて本当にいい一日だった……)田村は上機嫌になって我が家
へと足を運んだ。
 空はすっかり暗くなっている。腕時計を見ると8時を軽く過ぎていた。思えば2時間近く鈴木
と飲んでいた計算になる。帰る途中、鈴木と会ったあたりでどこからか陽気な音がしたみたい
だった……けど酔っている田村にはその音が聞き取れなかった。
それからというもの田村は駅から家までの道のりが嫌ではなくなった。(また誰かと出逢える
かも)と思うと自然と服装や髪型にもいくらか気にするようになった。
 けどそう毎日は人には逢えないのである。確かに人口がそれほど多くない地域だから当然
といえば当然だが。
 季節は秋になった。喫茶店は駅から離れているにもかかわらずそこそこの客が訪れている。
珈琲豆や菓子類の取引先も確定し、サイドメニューのカレーライスもメニューとして加わった。
 そんな10月のある日。田村は東京の浅草に商用があった帰りのことだった。夏のころには
畑だった駅前の道にも住宅建設用地に変わっていた。すっかり整地され「住宅用地格安販
売」といった幟(のぼり)や看板があちこちに見受けられるようになった。
(このあたりも何年かすると畑や林がなくなって家ばかりにしまうかも・・・)と田村は思った。
 すると住宅販売予定の更地の方から
「お久し振りです」
 との声がしてきた。空はちょうど宵の刻ごろであった。
 田村は(こんなところでいったい……誰かな?)と思い振り返った。するとそこに年嵩30歳
前後の女性が一人で立っていた。丸顔でどことなく懐かしい顔立ちであった。
「もしかして、あなたは……」田村は一瞬昔の出来事を思い起こした。
(確か高校の同級生にいたような気が……)頭の中で当時の思い出を検索し続けていると、
「高校のとき同級生だった山本です」との女性の声。
「!!そうか!同級生で私と隣の席だった山本秋子さんですね!いやいやお久し振りです。
いつか会いたいという気持ちで一杯でした!」
 田村は少し興奮して一気に話し終わると、山本さんは、
「今度この町に引っ越そうかと思い、今日は、このあたりの住宅建設予定地を見て回ってい
たのです。今日は同級生だった田村さんと久しぶりに会えて本当に嬉しかったです」
 さすがに久しく会っていないうちに、すっかり立派な女性になっていた。さらに山本さんは、
「このあたりに新居を構えようと、先日新居ができるまでの間住むために近場に古い一軒
家を借りましたので、お時間があるようでしたならぜひお越しください」との事。
 それを聞いて田村は心が躍動した。それはまるで天にも昇る思いだった。実は田村にと
って山本さんは口には心情を表現できなかったが同じクラスになって以来ずっと好意を馳
せていた人だったからであった。
大通りから細い路地を行くこと2分。雑木林の中に立っている平屋の一軒家に2人はたど
り着いた。場所から考えても不自然に小奇麗な家であった。
 
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