夏の日の一日

 平成23年3月11日。日本国民にとって忘れる事の出来ない日であるとともに、今までの生活が大きく転換し始めた日である。
 言うまでもなく、三陸沖を震源に発生したマグニチュード9.0という未曾有の巨大地震と、それによって引き起こした巨大津波、
いわゆる【東日本大震災】である。
 これによって1万5千人以上という尊い人命が失われ、財産・建物・道路・鉄道・豊かな自然・農地・漁場……日常生活の何も
かもが津波によって奪い去ってしまった。
 しかも、津波の被害が岩手県から茨城県に渡る広大な範囲に及んだのはご承知の通りだ。
 更にこの巨大地震によって、日本国民の多くが体験した事のない試練を負う様になったのである。
 言うまでもなく、福島第一原子力発電所での事故であり、これによって日本はおろか全世界が原子力発電に不安と疑念を持
つようになり、確実に世界各国が【脱原発】【再生可能エネルギーの推進】という次なるステップに踏み出しはじめた。
 原子力発電所の停止は、すなわち発電出来る量の減少につながり、今まで国民が予想だにもしなかった【電力不足】と言う
事態を乗り切るのが大きな課題になった。
 それによって、日本国民が節電という新たな生活を始めたのは言うまでもない。これは皆様も毎日実践しているであろう。
 そうして迎えた平成23年の夏。節電という試練の中、各方面で企業努力や対策を講じているのはご承知の通りだ。
 中でも、すだれや打ち水といった日本古来の納涼法が見直されているのも事実だ。

 良く考えてみると、日本という国は、昔から夏は高温多湿の気候であった。江戸時代も平安時代も夏は暑かったという事は
歴史が物語っている。平成時代のように、ヒートアイランド現象や地球温暖化こそなかったが、日本人は皆暑い夏を乗り切っ
ていた。
 もちろんエアコンはおろか扇風機もなかった時代、庶民の知恵で夏の暑さを打ち勝ったのは事実だ。
 しかしこういった暑さ対策に関しての資料は、江戸時代より昔となると極端に減るが、昭和の時代となると豊富に現存する。
 それらの対策は、古くからの知恵のようなものが数百年の間脈々と受け継がれていたのであり、興味深い。
 おそらく現代日本に於いても通用することもある。
 この物語は、昭和30年代のごくありふれた一般庶民の夏の生活を文章化したものであるが、エアコンがなかった時代の生
活から、この夏を乗り切るヒントが得られれば幸いである。

 時は昭和35年の8月初旬。場所は東京近郊。住宅地のとある一軒家。
 目覚まし時計が午前6時を指す。
 ジリリリリリ……
 この家に住む主婦の中島千代子さん。年は30代の後半くらいか。
 眠い目をこすりながらも目覚まし時計を止め寝床から出ると、薄い寝巻きのままで台所に向かう。
 今は8月なので、朝早い時間ながら気温は20度を超えていて、真冬のようになかなか布団から出られないような寒さでない
ので、楽なのは確かだ。
 台所で待ち構えているものは炊飯器。ご存知の通り昭和30年代には、今のようなタイマー式の炊飯ジャーはなく、単に炊飯
するだけの機能しかなかった。なので朝早く起きて炊飯のボタンを押さなければならない。けど、釜を使って炊いた昔と比べて
はるかに楽になった。
 炊飯器のボタンを押した千代子は、もう一眠りをしようかと思ったが、冬と違ってこれから気温が上昇してきて安眠すらも出来
なくなるので、そのまま朝食の準備をした。
 その前に、台所にある小さなたらいの中に水が残っていたので、それを玄関と勝手口に撒いた。
 言うまでもなく打ち水であり、当時は一般庶民がごく普通に行われていた。気化熱の作用で気温を下げる、江戸時代から脈々
と続けられた暑さ対策だ。
 今では考えられないかも知れないが、昭和40年代まで、東京23区でも住宅地では道路がアスファルト舗装されていなく、特に
夏は砂埃もたっていたそうだ。地面に水を打つ事によって、砂埃の抑制と温度低下というまさに一石二鳥の効果があった。
 今のように道路が舗装されていなかったおかげで、打ち水による効果は今よりも高かったという。しかも舗装道路で起きる照
り返しによる温度上昇もなかった為、打ち水だけで相当の冷却効果があったとも言われている。
 千代子は打ち水をしたおかげで、心なしか付近が涼しくなって、いくらかほっとした様子だ。
 再び台所に戻り、氷で冷やす旧式の冷蔵庫に入っていた昨日の残り物と、糠床に漬かっていた漬物を切っていると、
「おはよう」
 の声。
 紛れもなく中島さんの子供、健太くんだ。そそくさと寝巻きを脱ぎ、ランニングシャツと半ズボンの姿になるや否や、
「行って来ます!」
 健太はそう言うと、元気良く外へ出かけた。
 御察しの方もいるかと思うが、当時の子供達の楽しみの一つ、ラジオ体操に出かけたのだ。今のように10日間という短期間
ではなく、地域によっては夏休み中毎日行っていたところがあったと言う。
(子供は元気だね……)と思いながら漬物を切る千代子。
 その後に起きてきたのは、一家の主である旦那・幸男さん。眠い目をこすりながら、汲んである井戸水で顔を洗い、背広に
着替える。
「毎日暑い中お仕事大変ね」
と千代子がねぎらうと、
「そりゃ大変だよ。何せバスも電車も会社の中も暑苦しいからな……」
 8月に入り体も暑さに慣れたとはいえ、幸男の声に力はあまりない。
「本当にご苦労様」
 千代子はこのくらいしか返事をする事が出来なかった。
 とにかく冷房のない時期、サラリーマンにとっては、夏は今よりも大変だったという。
 新聞を読んでいるうちにご飯が炊き上がったので、幸男は早速朝食を取り、そして会社へと向かった。
 数分もたたないうちに、幸男と入れ替わりに健太が帰ってきた。ラジオ体操帰りで、首から出席カードをぶら下げながら、
「ただいま!」
 千代子はすぐに準備をして、親子2人で朝食を食べた。
 夏休みは、子供にとっては今も昔も一年のうちで最大の楽しみであることには変わりない。けどやはりと言うか昔の子供の方
が元気に外で駆け回っていたみたいだ。
 けど、夏休みの宿題もたくさん出されるのは変わらない。
 健太は小学校の低学年なので、それほど大量ではない。親のしつけがいいのか、朝食後の涼しいうちに少しずづ宿題をこな
している。
「ごちそうさま!宿題やってくるか……」
 その声を聞いて少し安心する千代子。けど主婦である以上、学校の宿題はないが、家事はしなければならない。
 と言っても、掃除は部屋を開けっ放している夏の方がやりやすいし、洗濯も冬よりは断然楽だ。
 昭和30年代後半に入ると、【高嶺の花】とも言われた白黒テレビや洗濯機も、庶民に手が届く値段まで安くなってきた。しか
し、中島家では洗濯機はまだ購入していない。冬のボーナスで買うと幸男は話していたが……。
 なので洗濯はいまだに洗濯板を使っている。まあ、今は夏なので水も冷たくなく、洗濯は苦痛ではないのだが。
 毎度の事ながら、千代子が家事をしている間には、健太は宿題を済ませているか、はたまた途中で家を抜け出して外に遊
びに行くのがお決まりのようで……。

 午前10時。
 洗濯を済まし、洗濯物を干し終わると、太陽はすっかり高くなり、それと共に気温もぐんぐんと上昇。30度は軽く超えるような
真夏の暑さに包まれる。
 確かに体は暑さに慣れたものの、こう毎日暑さが続くと、動いているのすらもいやになってしまうもので、太陽がぎらぎらと
照りつけ始める昼前には、畳に仰向けで横になってしまう始末。
 この暑さはいつものことなのだが、冷房もない一軒家だと、ただただばててしまうしかなかった。
 昭和35年の時点では、各家庭にエアコンはなかったものの、扇風機は少しずつ家庭に入り始めてきた。なお、当時扇風機
の平均価格が1万円くらいであったと言う。これは当時の公務員の初任給の給料の一か月分であり、今ではとうてい考えら
れないが、扇風機は高級家電製品の部類であった。無論中島家には扇風機もなく、団扇で風を起こすのが常であった。
 昔ながらの涼を得る道具である団扇は、昔は各商店からお中元として無料でもらえたので、中島家にはたくさんあった。け
ど当然ながら扇いでも扇いでも生暖かい風が来るだけの焼け石に水程度で、千代子も、団扇で扇いでも腕が疲れるだけだ
と愚痴をこぼす。
 当時の暑さ対策の一つとして、庭のある家ならば、南側の庭に竹や木を組んだ高い棚を作り、藤・ヘチマ・ひょうたん等を
絡ませて日よけにした。今で言う【緑のカーテン】である。
 しかも、ヘチマは、食用・タワシ・化粧水など利用価値が高く、なおかつ形も面白いので、日よけ効果以上に役立った。
 中島家でもヘチマの棚があり、日よけ効果のおかげでいくばくか室内は涼しくなっている。だけども昼になると体を動かす
だけでもばててしまうこともよくあるので、体力の消耗を防ぐためにも横になっているのが最善と考えている。
 時折外から聞こえる子供達のはしゃぎ声を聞くと、つくづく、
「子供って本当に元気だね……」
 と自らの衰えをひしひしと感じ始める千代子であった。

 部屋の時計が正午を知らせる。
 そろそろ昼食の準備だ。さっきまで外で遊んでいた健太も帰宅してきた。
 当時の夏の昼食というと、大体決まっていたそうだ。御察しかも知れないが、冷麦やそうめんといった麺類である。見た
目もさわやかで冷たくて、食欲のないときでも食べられる、しかも調理も手軽という事で、今も昔も変わらぬ人気である。
 しかも、昼食後か、3時のおやつには必ずといっていいほどスイカがデザートとして出る。これは昔はスイカが安かった
からかもしれない。
 中島家で食べているスイカは、とても冷たい。もちろんこの時代、電気冷蔵庫はまだまだ高価だ。
 実は、家の裏にある井戸の蓋を開け、そこから買ってきたスイカをあらかじめ吊るしていたからだ。井戸は一年中温度が
一定で、夏は冷たかったので簡易的な食品冷却に使っていた。またスイカに濡れ布巾を張るだけでも、気化熱を利用して
冷やす事が出来る。これは古典的ながらも、電気を使わない食品冷却方法として今でも使えるかもしれない。
 そうめんとスイカを食べ終わると、昼過ぎだ。この時間は一日で一番気温が高くなる頃だ。
 何度も書くが、クーラーやエアコンがなかった時代、炎天下で遊んだり出かけたりすると、日射病になりやすいという事で、
この時間帯は出来るだけ外出しないようにする習慣が出来ていたし、子供はこの時間の昼寝を強制されたという。とにかく
今と違って衛生管理がよくない時代だからこそ、体調を整える事が伝染病の予防にもつながったと言われていた。今では考
えられないが、大人も子供も家で昼寝をしているところが多かったという。これも今よりも治安が良かったからだったかもしれ
ない。
 しかも、冷房装置がない室内だから、大人も子供も家の中では下着で過ごしている場合が多い。無論、ある程度年齢層の
高い男性なら褌一丁、小さい子供なら裸という場合もある。
 もちろん家中の窓やドアは開けっぱなし、外からすだれやよしずがかかっているので直射日光はさえぎってくれる。しかも
すだれのいいところは、家の中から外は見えるが、外からは家の中が見えない。だからたとえ室内で裸でいても、家に入っ
てこなければ大丈夫という利点があった。
 もちろん千代子も薄手の下着で昼寝をし始めた。
 昼寝の前に千代子がしておくことがある。それはヘチマ棚の脇にあるたらいに水を入れることだ。

 午後2時半。
 一日で一番暑い時期を過ぎ始める頃2人は目が覚めた。というか蝉の合唱で目が覚めたに過ぎないが。
 もちろん寝汗はかいてる。汗で失われた水分の補給と、のどの渇きを潤す為、千代子は井戸の水を汲んできた。
 ただの井戸水を飲むのではない。【ジュースの素】を入れて溶かしたのだ。昭和29年に発売されて以来、家で簡単に清涼
飲料水が出来るという事で一躍人気商品になったものだ。
 ジュースを飲むなり、2人は、「おいしい!」と叫んだ。少しは暑さも和らいだようだ。
 かいた寝汗は下着を着替えればいいことなのだが、着替える前に、昭和30年代ならではの夏の楽しみがあった。
 それは行水である。
 たらいに水を入れて屋外に数時間置くと、ある程度水がぬるむ(日向水とも言う)ので、それに入って身体の汗を流し去る
と共に涼を楽しむものであり、昭和40年代くらいまでは一般家庭でごく普通に行われていた。
 当時は、風呂がない家も多く、毎日風呂に入ることが出来なかったから、汗を流し、体を清潔にしたりあせもを防いだりす
るには行水が最適であった。
 今では考えられないことだが、子供はもちろん大人も(女性も!)裸で行水をして、汗流しと気分転換をしていたと言う。
 もちろん今ではたらい自体が洗濯機の普及とともになくなったし、各家庭にシャワーや風呂が完備されているし、なにしろ
大の大人が裸で家の外にいること自体はばかられる時代になったからかもしれない。
 それ以前に昭和30年代くらいまでは、近所づきあいが濃厚で、特に子供は近所の子たちと一緒に行水したり銭湯に行った
りと言う裸の付き合いがあったので、恥ずかしいという考え自体がなかったのかもしれない。
 ヘチマ棚の下で、早速裸になって行水(水遊び)をしている健太を見ながら千代子は、茶の間にあるラジオをつけた。
〔……太平洋高気圧が広く日本列島を覆い、午後も暑いでしょう。なお、午後3時現在の不快指数は85。3日連続の全員不
快となりました〕
 天気予報でもこの夏の暑さを報じている。ちなみに、昭和50年代くらいまでは夏になると天気予報で【不快指数】を報道さ
れ、庶民にもなじみの深い用語になっていたが、最近では聞かれなくなった。
 それは、平成に入り熱中症の被害が出始めたころ、不快指数が熱中症の被害との関係と一致しないと分かったからで、
代わりに、熱中症予防のための指標として、高温環境を評価する【WBGT指数】や【熱中症指数】に置き換えられた。と言う
経緯がある。
 とにかく、この頃は熱中症という言葉自体もなじみがなかった事もあり、不快指数でも十分に耐え切れない暑さを数値的
に知るには適していたのかもしれない。
 ……こう暑いと、あまり行きたくない場所のひとつにトイレがある。
 ご存知の通り当時のトイレは、ほとんどが汲み取り式のため、真夏のトイレはまさに地獄そのものであった。暑いし臭いし
おまけに蝿だらけ。これでも人間の生理現象には勝てないので、皆我慢して行く事になるのだが……。
 逆に暑くなると行きたくなる場所として映画館がある。それは怪談物を上映するからである。
 昭和30年代はご承知の通り、ビデオはもちろんテレビも普及していなかったため、映画が庶民の最大の娯楽の一つであり、
特に夏となると怪談映画やホラー映画を上映していた。映画全盛期には町のあちこちに映画館があったので、人によっては
怪談映画のはしごをして、怖さによる納涼を楽しんでいたかもしれない。
 無論、寄席での怪談話の興行や縁日のオバケ屋敷や肝試しといった怖いイベントは、平成時代より盛大に行っていて、子
供を中心に夏の思い出作りに一役買っていたという。
 ただ、中島家の長男・健太は、怖い事は嫌いな性格なので、肝試しもオバケ屋敷も自ずからは行こうとはしないが……。
 その代わり良く行くのが【秘密基地】だ。当時は空き家も子供達の遊び場になっていた。もちろん親には内緒で!

 午後4時。
「ケンタくん!遊ぼう!」
「近所のタケシくんだ!行って来ます!」
「晩ご飯までには帰ってくるのよ!あと生水は飲まないでね!」
 と千代子の声。だが健太の耳には届かなかった。
 なぜ生水はだめなのか?それは当時は上水道や下水道があまり完備されてなかったので、きちんと水質検査や消毒をし
ていない道端や空き家の井戸の水には、生活排水から流れ出た大腸菌類が混入され、赤痢になる可能性があるからだ。
 特に子供は赤痢にかかると、最悪の場合死に至る事もあったため、子供を持つ親は、子供に生水を飲まないよう注意を欠
かせなかったし、学校でも指導されていたらしい。
 もちろん中島家にある井戸は、定期的に水質検査をしているので問題ないが。
 健太が町の片隅にある【秘密基地】に来る途中で買ったアイスキャンディーを食べながら友達と談笑していると、急に空が
どんよりと暗くなった。
「夕立になりそうだから帰ろう」
「そうだな、じゃあまたね!」
 健太が帰宅してすぐ、東京の町に強い雨が降った。そして雷も轟いた。
「キャー!雷だ!」
「大丈夫よ、すぐに止むから」
 夕立が自然の打ち水効果となり、気温をぐんぐん下げ、夜には気温が30度以下になり、不快指数も低下した。
 夕立が収まってしばらくしたら、幸男が帰宅してきた。
「ただいま。さっきの夕立はすごかったな」
「そうね。けど夕立のおかげで涼しくなったから」
 浴衣に着替えた幸男は、さっそくビールで晩酌。もちろんこのビールもあらかじめ濡れ布巾で冷やしておいたものだ。
「いや〜!仕事の後の一杯はたまらないな!」
「お勤めご苦労様」

午後6時半。
一家そろって夕食。炊き立てのご飯と味噌汁、夕立前に近所の肉屋で千代子が買ってきたコロッケ、そして漬物。聞こえて
くるのはラジオのニュース番組。テレビはなかったが、家族の絆が強い昭和30年代。夕飯時の一家団欒こそが最高の楽し
みだった。昼間の暑さもどこへやら。もちろん夕飯の献立は今よりも貧相だが、心の豊かさは現代以上だった。
 夕飯を食べ終わると、冬ならば入浴して寝るだけなのだが、夏の場合は、まだまだ夏ならではの楽しみが残っている。
 それは夕涼みだ。
 暑い真夏の太陽が沈んだ夜になると、昼間より気温が下がり、過ごしやすくなる。(夕立の後の時はさほどではないが)
 だからこそ、大人も子供も家の外に出てしばしの時間、涼を楽しんだものだ。おもちゃ花火、蛍鑑賞、縁台将棋……。いず
れも平成時代ではあまり見かける事の出来ない風景になってしまった。これも、道路の舗装化とエアコンの普及によるヒート
アイランド現象が引き起こしたものだろうか?
 けれどこういった優雅な時間もせいぜい夜の9時くらいまで。それ以後は子供も大人も寝る時間だった。
 当時は午後9時を過ぎるとたいていの人が就寝していたと言う。これは今と比べて娯楽が少なかったのも要因としてあるが、
電気を節約する事も理由の一つという(当時は電力事情が今より貧相の為、時折停電になった)
 寝るといっても、熱帯夜の日もあり、冷房のない昔は、窓を開けて寝るくらいしか対策はなかった。
 無論当時は治安が良く、近所の絆が強かったので、窓を開けても盗難とか事件とかはまず起きない時代だった。
 けど容赦なく侵入する【客】は今も昔も変わらない。その客は言わずと知れた蚊だ。
 当時も蚊対策は一応万全に出来ている。
 蚊取り線香は明治35年に発売されて以来、現在でも変わらぬ姿で製造販売しており、電子蚊取り器が販売される今でも愛
用者が多い。また、物理的に蚊を避ける道具として蚊帳(かや)がある。
 昭和30年代は結構高価であったが、夏の夜を安眠に過ごす道具として一家にひとつは必ずあったという。蚊帳は、電気や
薬品を使わない蚊避け道具として見直されつつあるという。
 中島家でも夏になると奥の部屋に蚊帳を張るのが毎年恒例だ。

 午後9時。
 寝る時間になると、親子3人が次々と蚊帳の中に入っていく。蚊帳に入るときは、周りの蚊を追い払うかのように蚊帳の裾
をバタバタとさせ、裾を体に添わせるようにして入るのが鉄則である。それでも、その作法がうまくない健太が入るときに、一
緒に蚊帳の中に蚊が入ってしまう時もあるのが難点だが……。
「おやすみなさい」
「明日も暑いだろうな……」
 一家3人蚊帳の中。窓は開いているが、蚊帳の中まで涼しい空気は入りにくかった。それでも蚊帳は、一家の絆をひしひし
と感じさせられる不思議な空間でもあった。
 こうして中島家の一日は終わった……。

 昭和30年代。暑い夏もそれなりに工夫して暮らしていた。
 電化製品が全ての家庭に普及し、電気がある以上は快適な生活が送れる平成時代。しかし、この電化万能時代が根底か
ら崩壊し始めたと言っても過言ではない時代に突入した。
 私達は、限りある電力で有効に生活できる方法をこれから模索するであろう。こんな時代だからこそ昭和の古きよき時代か
ら、節電と涼を両立できるアイディアを見つける事が、これからの課題になるのかもしれない。

【完】

参考資料:夕焼けの詩 西岸 良平・著(小学館)
       探ってみよう暮らしのキオク 愛知県師勝町教育委員会・編
       昭和路地裏大博覧会 市橋芳則・著(河出房新社)
       昭和くらしの博物館 小泉和子・著(河出房新社)
       大江戸えころじー事情 石川英輔・著(講談社)
       マンガで読む「ロングセラー商品」誕生物語 藤井 龍二・著(PHP)
       広辞苑 第5版(岩波書店)
       長崎県大村市広報 昭和33年8月上旬号
参考サイト:yahoo知恵袋 http://chiebukuro.yahoo.co.jp/
       環境省 熱中症予防情報サイト http://www.nies.go.jp/health/HeatStroke/wbgt.html
       社会実情データ図録 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2280.html
       我が家と家電製品の昭和史・扇風機 http://www.hi-ho.ne.jp/fukada-takesi/fan.htm

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