(けど何回見ても、このメモには『私鉄の駅で降りて徒歩二十分』と書いてあるな、もしかしたら……)
と良からぬ事を考えると、上田は駅に向かわず、この界隈をもう少し散策してみようと思った。
しかし、この良からぬ考えが、悲劇を更に拡大するものであった。【会長宅】から歩いて五分の所に、
この界隈にある住宅と明らかに違う豪邸が一軒建っている。土地も広く、建物も三階建で立派だ。
(やはり会長宅はこの家だったか……)
上田は呆然とし、完全に力が抜けてしまった。大理石で作られた大きな表札を見ると【澤田一三】との
立派な文字。確かにこの家も澤田さん。するとやはりこの家が本当の会長の家だったのか……。
上田はその豪邸を前にして、がっくりと腰を落とし涙もこぼれた。初めての仕事で、訪ねる家を間違え、
しかも手土産を全く違う家の老人に渡してしまった……。
(ああ、これでこの会社ともお別れだ。来月からどうしようか……)と未来も心配しはじめた。
今更「先ほどは訪ねる家を間違えてしまいました……」とさっきの家に行って陳謝して、手土産を取り
返す訳にも行かない。あの爺さんの事だから、今頃、手土産の包みを開けて中の菓子を食べているに
違いない。かと言って、この豪邸に手ぶらで挨拶に行くのも失礼だし……。
それなら、あの家に行って手土産を渡したのだから、より道しないでそのまま帰っていた方がかえって
良かったのかも?それなら、さっきの家が間違いだったにしろ、まだ弁解の余地がある。ならばいっその
事、知らぬが花とばかりに、この家は見なかった事にした方がいいのか?
あれこれ考えているうちに時間は昼をとっくに過ぎてしまった。上司からは鉄道運賃しかもらっていな
い。財布は自分のロッカーの中。そしてお昼の弁当は会社に置いてある。
今更悔やんでも仕方ない。上司には言い訳をしないで、きちんと謝るしかない……。
(会社に帰ったら上司に思い切り怒鳴られるだろうな……)と帰りの電車内でも、あれこれ悲しい未来を
予想していた。本当にこのまま会社に寄らずに家に帰ろうかとも思った。けれど(ここで弱音を吐いたり、
逃げ出したら俺の負けになる)と思い、渋々ながらも会社に戻った。もちろん上司に散々油を絞られ、始
末書を書かされるのは覚悟の上である。
湘南開発ビル。上田はすっかり肩を落とし、重い足を引きずりながらビルの中に入った。そして営業部
に入るなり、真っ先に上司のもとに向かった。
上司はしょんぼりした上田の顔を見るなり、
「墨田区の澤田正蔵会長の家に挨拶に行ってきたか?」と問いかけてきた。
上田は(澤田正蔵会長??)と一瞬迷った。行く時に上司から確かに【澤田会長】と言われたが、会長
の名前までは訊いていないし、自分からも質問しなかった。
沈黙しているのもいけないと思い、小声で、
「行ってきましたが……」と、わざと言葉を濁した。
上司は彼の態度を見てすぐさま、
「この調子だと、どうやら会長宅に行ってきたみたいだね」
と薄笑いをしながらの冷ややかな答え。
「はい。そうですが、実は私、この件で……」
と、小声で言いかけた直後、
「先ほど会長から私の元に電話がかかってきた。礼儀正しく誠実な社員だと、君の事を褒めていたよ。
おめでとう!」
上田にとって全く意外な答えが返ってきた。あの古い平屋建ての家で正しかったのである。あの老人
が澤田会長本人だったのである。
さっきまでどん底に堕ちていた上田が、思いがけない朗報に、
「そうでしたか。私はてっきり違う家かと思いました!」
と、喜びと驚きの表情に変わり、俄然言葉が弾み始めた。
「ああ、あの家で間違いない。もし君があの家は違うと思い込み、近所にある【澤田一三】家に行った
としたら、おそらく君は始末書を書かされていたに違いない。下手したら解雇もありえた」
何と、上田のした選択は間違いではなかったのだ。そしてあの時、間違った判断をしたら逆に懲罰を
受けていたのであった。
「けど、なぜ澤田会長はあのような家に住み、あのような様相をしているのですか?」と訊ねた。
上司は笑みをこぼしながら上田にこう話した。
「澤田会長は建設業界ではちょっとした変わり者で、『下町で立派な家に住んでいると、あの家に行け
ば金があると言う事を悪人に教えている様なもので、油断しているとやすやすと泥棒に入られて、せっ
かく貯めた財産を盗られてしまう。それを防ぐ為に、あえてあのような家に住んでいる』と言う話を別の
会社の人から聞いたけれど事実は定かではない」
これには上田も納得した。たとえ真意ではないにしろ、あの家とあの会長の様子だと、どうみても金が
有るようには絶対に見えない。
そしてさらに上司は、
「今まで君に隠していたんだが、今回の仕事は君に営業能力があるかどうかを試すテストだった。営業
と言う仕事は、人と人との交流に始まり、会社と会社の信頼によって築かれるものだ。たとえ相手先の
担当者が初対面であっても、決して人を外見では判断してはいけない。人と言うものは外見ではなく、
中身で勝負するものだ。相手担当者の心の内を汲み取らず、上っ面ばかり気にしているようでは、取れ
そうな契約も失ってしまうものだ」とのアドバイスを受けた。
なるほど、確かに上田自身も「あのような家では会長の家ではない」という先入観があった。けど物事
は、きちんと核心まで見ないといけないのだな。と言う事を今回の試練で思い知ったのである。
時計の針は二時近くになってしまっている。
「君はまだ昼ごはんはまだだろう。すぐ食べて来い!」との上司の声。その声は妙にやさしかった。
上田も元気な声で、
「わかりました!」と答えた。
翌日。無事【試練】を受けて合格した上田に、先輩が昨日の事について訊ねてきた。
その先輩は数年前に同じ試練を受けた際、あの家と【大会社の会長宅】という先入観が捨てきれず、
間違って【澤田一三】の方の豪邸に挨拶してしまい、帰社後、上司に叱責されて始末書を書かされた
と言う経験を持つ。
そして先輩から、衝撃的な話を聞かされた。
「実は『澤田一三』とは澤田商事の社長であり、君が昨日訊ねた澤田会長の長男なんだ。もちろん
あの豪邸は社長の家だ。わが社に代々受け継がれている噂話の一つだけど、澤田会長は古くから
あの薄汚い平屋建ての家に深い愛着があり、なおかつ昔ながらのゆったりとした生活が好きなので、
【泥棒除けに住んでいる】との口実を付けて、長男が住むあの豪邸に住むのをずっと拒んでいるらしい」
「なあんだ、そうだったのか。けど本当に良くできた【試練】だな!」二人は笑った。
……あれから一年。上田も営業の仕事も板についてきた。もちろんあの時上司から教わった【営業
の極意】は忘れていない。
毎年四月になると、あの日の試練を懐かしく思い、あの時に間違った行動をしなくて本当に良かった
なと改めて思う上田であった。
【完】