初仕事

 神奈川県にある、中堅クラスの建設会社【湘南開発】。ビルや住宅の建設から、リフォームや不動産
まで幅広く事業展開をしている。
 この会社の営業部は、十年位前から、新たに配属された社員に、一種の試練とも言える業務を突発
的に与えている……。
 今年も新たに一人の社員が現場から営業部に配置転換された。
 上田英樹、二十七歳。体格は大柄であり、容姿こそ今風ではないが、元体育会系というだけあって、
運動能力に長けていて、挨拶もはきはきとしている。
 入社以来ずっと現場で働いていたので、もちろん営業の仕事は初めてである。
 理不尽とも言える配置転換は、【自主的退職】をそそのかす、ある種の嫌がらせだと思ったが、(自分
の能力を試す為に、あえて不得手の分野に配置転換してくれたのだ)と心の底で言い聞かせたのであ
る。それもその筈、今ここで辞表を出したら、会社の思う壺だと感じたからである。
 世界的規模の不景気の最中、石にかじりついてでも今の会社に留まらまいといけないので、たとえ今
の状況がどうであろうと素直に受け入れ、今まで以上に精進すべきだと感じたのである。
 四月、上田が営業部に配置され一週間後。いつも先輩の後をついて廻っている上田に対し、彼の上
司からある一つの仕事を依頼された。それは営業部に代々伝わる【試練】であった。もちろんその事は
今の上田には全く知る由もなかった。
 その仕事とは、この会社の最大の取引先である【澤田商事】の会長宅に行って挨拶をする事である。
 澤田商事は湘南開発の親会社でもあり、周辺の土地開発や資材の調達等で、会社開設当初より大
変お世話になっている。また建設業界では、建設業界に澤田ありとも言われる程の有名企業でもある。
 湘南開発の営業部は、澤田商事と関連のある企業と取引をするケースが多いので、上の人に名前と
顔を覚えてもらう事が営業にとってとても大切である。
 上田にとって初めての仕事が会長への挨拶回り……上田はもっとちゃんとした仕事が与えられるのか
と考えていたので正直がっかりした。けど【営業の基本は挨拶】なので、初心に返るのも大切だと思った。
 上司から、会長宅の住所が書かれたメモと交通費、そして手土産の菓子折りを手渡されると、
「澤田会長宅には、車でなく電車で行くように!」との一言。
 そう言われるなり上田は、(何だ!車ではだめなのか、せっかくカーナビに住所を入力して簡単に会長
宅に行けると思ったのに……)と思った。もちろん上司は上田の考えなぞ全てお見通しで、
「カーナビに頼らず電車と自分の足で行くように!都心で営業活動するには、車では無理な所が多い。
山の手や幹線道路沿いならともかく、駅前商店街や下町の住宅地には、車で入れない細い路地もある
のだから」との事。
 なるほど、確かに上司の意見は筋が通っている。と営業初心者の上田は感心した。
 午前9時、上田は本社ビルを出て、一路駅に向かった。
 上田は車通勤だし、休日も車でドライブに出かけたりデートに行ったりしている。しかし電車は滅多に
使わない。個人的に電車が嫌いという訳ではないのだが、時刻に縛られないでいつでもふらっと行け
る車の方が好きなのだ。尤も切符を買ったり電車を乗り換えたりするのが面倒なだけかもしれないが。
 上田は乗り慣れない電車を乗り継いで、東京都墨田区のとある私鉄沿線駅で下車した。
 そこそこ賑わっている駅前商店街を通り過ぎると、ごく普通の民家や商店が並ぶ昔ながらの町並に
変わっていた。文字通り【東京の下町】といった落ち着いた住宅地が続いている。
(大会社の会長だから、田園調布や成城のような優雅な地域に住んでいるかと思っていたが……)
 上田は少し意外に思った。その【意外】も、数十分後に【驚き】になるとは思ってもいなかった。
 駅を降りて地図や案内板を頼りに歩く事二十分。上田はやっとの思いで会長宅にたどり着いた。
 それは上田の予想をはるかに超えるものであった。その家は築五十年は越えているであろう平屋
建ての小さい一戸建て。表札の文字が消えかかっていて、大風が吹けばどこかに飛ばされてしまい
そうな、あまりにも粗末なものだ。
(本当にこの家が澤田商事の会長宅なのか……)上田は動揺し、心配さえもした。
 けど上司からもらったメモの番地と、案内板の地図の番地と一致している。下車した駅もメモの通り
だし……。まさか上司が、大切な取引先の会長宅の住所を間違えるはずが無いし……
 そうなると、上田が考える事は、【会社側にとって都合の良い思惑】ばかりであり、
(澤田会長宅と言いながら、わざと見当違いの家を訪ねさせ、その家の人が会社に対し苦情を言わせ
るように仕向け、その結果俺を都合よく解雇させると言う、巧妙に仕組まれた罠なのか、それとも……)
 あれこれ思案しているうちにも、無常にも時間が過ぎていく。
 けどこれはどんな形にしろ、上田にとって初めての仕事である。たとえ【巧妙な罠】でも何でもいいか
ら、とりあえず結果を示さないといけない。一か八か、上田はその小さい家の玄関に付いているベルを
鳴らした。すぐさま家の奥から、この家の主人である老人がやってきた。
 上田にはその老人の姿が、全くの想定外だったので思わず目が点になった。たった今起床したばか
りなのか、黄ばんだ浴衣姿で髪はぼさぼさ、無精ひげも生やしている。
 この老人が澤田会長だとは!恐らく十人中十人までが否と答えるだろう。
 けど、もしかしたら本物かもしれないという僅かな期待を賭けて、棒読みながらも老人に話しかけた。
「はじめまして。私は神奈川の湘南開発株式会社営業部に新たに配属されました上田英樹と申します。
不束者ですが、今後ともご指導ご鞭撻のほど宜しくお願いします」
 言い終わるとしばしの沈黙の後、寝ぼけたような声で、
「はあ、そうですか。あんたが上田さんかいな。で、このわしに一体何か用か?」
 彼の想定外の答えが返ってきた。(しまった……家違い&人違いだったか……)
 しどろもどろになりながら、かつ顔はあくまでも平静を保っていながらも、緊張のあまり、
「今日は、私の上司の指示により、こちらに挨拶に参りました」
と、あまり中身の無い受け答えを言うにとどまった。
 そして、
「つまらないものですが……」と言いながら、手に持っていた土産を老人に差し出した。
 この段階でも老人は、相変わらずの口調で、
「はるばる神奈川からすまないね。老いぼれのわしに手土産までくれるとは。近頃珍しい若者じゃな」
と、歯をむき出しにしながら下品な薄笑みをこぼした。そのしぐさからみ見ても到底【大会社の会長】
というイメージからあまりにも遠すぎる。
 けど、これもひとつの勉強だと思いながらも、一通りの挨拶を済まし、下町の小さい家を後にした。
(今日の初仕事は完全に失敗だ。これで俺の運命も決まったな……)
 上田の脳裏に半ばあきらめの空気が流れた。