けどなぜかここの建物にいると怒ったり憤慨したりできなくなり、理不尽な事も全て正しいと思っ
てしまう。
(ひょっとして俺はこの職員に洗脳されたのでは?)とまで思ってきた。
 手続きが完了した後、若い係員は、
「先月までこの5枚の書類は同じ階のそれぞれ別の部屋で管轄していました。けど職員の改革で
簡素化が実現し、4階のスペースを丸々使える事ができました。今後も簡素化を続ける所存です」
とのはつらつな声が室内に響く。
「今度は5階ですね」と桜沢が尋ねた。
 「先月までは5階にも窓口がありました。けど厨房拡張の為移転したそうです。詳細は5階に掲示
してますのでそちらをご覧ください!」との事。またまた嫌な気持ちが高まってきた。急いで階段を
駆け上った。
 5階。確かに大きな壁で通路が塞がっている。その壁にこう書かれていた。
【5階にありました個室使用許可申請窓口は厨房拡張の為移転しました。移転先は、埼玉県さいた
ま市中央区上落合 さいたま新都市区画内……】
 この張り紙を見て桜沢は唖然として思わず泣きそうになった。
(せっかくあと一歩の所までまでたどり着いたのに、つい今しがた浅草まで行ってきたと言うのに今
からまた埼玉まで行かなければならないのか!)
 けど今更辞退する訳には行かない。もう既に誓約書と各種申請書が受理されていて、調理も始
まっているだろう。もし辞退したら食事を食べる事も出来ず参萬円という【罰金】を払わなければな
らない。完全に協会の思う壺には嵌る事になる。悲しくともこれが現実なのだ。
(仕方ない。埼玉まで行きますか……)桜沢は手帳に住所と連絡先を書き込んだ。彼の足取りは
急に重くなった。
 制限時間の午後2時まで残り時間が余りない。急いで上野駅に向かい、JR高崎線各駅停車の
電車に乗り込んだ。
 上野駅から電車に乗ること25分。桜沢はさいたま新都心駅に降り立った。そして壁の張り紙に
書かれていた窓口が入っているビルを目指した。新都心の隅の方にある大きなビルだ。このビル
の10階に移転したと言う。(なぜわざわざ埼玉なんかに移転したんだろう。都内で空いている貸事
務所なんか山ほどあるのに何で埼玉なんか支部として選んだんだろう……)
 燃え上がる怒りと理不尽さを我慢しながら〔東京創作料理組合埼玉支部〕のドアを開けた。
 20代後半の男の人が桜沢に向かって、
「いらっしゃいませ、どのようなご用件で?」と冷めた声で話した。
 桜沢は「ここで【個室使用許可書】が交付できると聞いて……」さすがの桜沢も意気消沈してし
まった。もはや料理を味わうという事よりも早くこの【罠】から脱出したいとの思いで一杯だった。
 係員も桜沢から発される特別な【氣】を感じたのか即座に許可書を発行した。
 許可書と言うものの、まるで子供が書いた様な下手な文字で【こしつしよーきょかしよ(←原文
のまま)】と書いただけのものであった。しかも子供騙しの様な書類が参千円もするのである。彼
の怒りを煮えたぎらせ心の底から爆発する要素としては十分過ぎていた。
「こんな紙切れの為だけにわざわざ上野から電車に乗ってさいたま市まで来たのか……」桜沢の
目から涙がこぼれて来た。(もう二度とこんな店に行くもんか!!)と力いっぱい叫ぶ気持ちを抑
えつつ、桜沢は重い足を引きずりながらさいたま市を後にした。
 再び上野の本部ビルに着いた時は午後1時半を回っていた。営業時間(制限時間?)まで何と
か間に合ったみたいである。
(俺はただ料理を食べに来ただけなのに、なぜこんなにまで色々と、しかもたかが書類ごときに
振り回されてきたんだ???)
 既に頑固料理人のこだわり食事の繊細さを味わう心意気は完全に失せてしまい、何でもいいか
ら食える物を腹に収めればいいんだ!そして一刻も早くこの忌々しいビルから逃げたい!という
気持ちで一杯になっていた。
 東京創作料理組合本部一階の【受付】で、係員に食券、診断書、誓約書のコピー、火気使用許
可書、漁業許可書、水道使用許可書、料理人委任状、廃棄物適正処理依頼書、個室使用許可
書を手渡した。すると全ての書類を持って係員は奥の事務所へと消えていった。
 待つこと5分。係員は「千葉県市川市在住、40歳、独身、平社員の桜沢真広様、全ての書類が
揃いましたので正式に食事をされる事が協会長から承認されました。誠におめでとうございます。
最上階でお食事の準備ができております。こちらのエレベーターで6階にお上がり下さい」と相変わ
らずの【個人情報暴露方式】は健在だ。
 桜沢は今までの理不尽な思いからやっと解放され、(やっと食事にありつける。努力は報われ
た!)とある種の達成感すらさえも感じた。まるで困難を極めたゲームをクリアしたかの如く……。
 けどここまでたどり着くのに交通費を含めて19,400円也かかっている。最初は安いと思っていたが
だんだん諸費用がかさんで最終的には高額になってしまう……。
 桜沢は「まるでこの店は巷(ちまた)にあるぼったくりバーにそっくりだな」と憤慨した。
 桜沢を乗せたエレベーターは6階の【食事処】に到着した。
 理不尽な関門をクリアした人しか入れない最上階らしく室内は純和風でかつ華美であり、どこから
か琴の音色が響く、文字通り贅を極めた空間である。
 桜沢は一番奥の個室に案内された。襖を開けるとすでに料理が出来上がっている。確かに料理
はこだわりを極めている。最上品の材料。どの品も手間暇かけたであろう調理。全てが【究極】の粋
に達している。もちろん桜沢の納得する料理のレベルであった。
 和服姿の係員が「桜沢真広様、どうぞごゆっくりお味を堪能して下さいませ」と言うと個室の襖を
閉め立ち去った。
 結局あれやこれやで弐萬円近く払ったものの料理を見た限りでは値段相応に見える。見た目が
これだけ豪華だと味の方もさぞかし美味であろう。
 笑顔が戻った桜沢は料理に箸をかけ〔こだわりコース〕の味を堪能した……。
 確かに素材の持つ味を最大限生かした作りだ。桜沢は今までの苦しみや怒りが一瞬で吹き飛び
思わず感動した。前菜も煮物も焼き物も極めて薄味でかつ淡白な味だ。
(……???……)
 けど食べいていくうちに【味】がしない事に気づいた。
 よく見たら椀に入っている吸物も単なる出汁(だし)の利いたお湯に過ぎない。刺身用の醤油に
もほとんど塩気がない。さらに食後のデザートである羊羹も、潰した小豆をただ寒天で固めただけ
に過ぎない……。
 この店の料理は全て味付けなしで料理されていたのである。確かにホームページで最初に見た
この店の宣伝文句に、【妥協を許さない頑固な料理人が手間暇かけて作る究極の料理】と書いて
あった。ひょっとして【味付けも妥協を許さない頑固な料理人】と言う意味だったのか?とも思った。
 けど書類集めで散々振り回されたおかげで、非常に空腹だった為、桜沢は不満な気持ちを抱き
ながらも【豪華な】食事を終えた。
 食事処を出る際、係員に、
「ここの料理は作りは良いが味は全く無いのですね」と皮肉を込めて話した。
 すると側にいた3人の係員は、待ってましたと言わんばかりに、最高の笑顔をして一斉に答えた。
「美味しい所は全て私たちが戴きました!!」
 桜沢は係員が発した想定外の回答に思わず呆気に取られてしまった。
「やられた!これが本当の【お役所仕事】だったのか!」
【完】
この話は、古典落語「ぜんざい公社」を基にしています。
なお、文中に登場する組合は架空のものです。