第1章 ようこそ、麻布が丘高校

第1節 突然の東京生活

 北海道の夏は短い。梅雨が無いからかもしれないがあっという間に涼しくなってしまう。
 苫小牧市に住む岡村さん一家。市街地から少し外れた新興住宅地に住んでいる。両親と双
子の子供の4人暮らしで、父親が北海道航空システムという航空会社に勤めている事から比
較的裕福な生活を送っている。
 8月下旬のある日の夜。
 普段は定時に帰宅する父であったが、この日に限っては家に帰ったのが午後9時過ぎであ
った。夕飯をとっくに食べ終わって部屋でのんびりしている家族を居間に集めると、一枚の紙
をテーブルに広げて置いた。紙には【辞令】と書かれている。
「会社の都合で来月から東京支所で勤務する事が決まった」
 一家は突然の転勤にびっくりした。何の前触れもなく言われたので返す言葉すらなかった。
 父は家族の動揺が収まるのを待って、話を続けた。
「会社の業務拡大で来年から東京に支社を置くことが決まって、俺はそこの準備室長に任命
された。秋から本格的に準備をするという運びになったので来月から勤務に就けと社長直々
に言われた」
「そうなると単身赴任になるの?」
双子の妹・沙奈(さな)が尋ねた。
「家事が出来ない俺にとっては単身赴任は嫌だと言った。すると社長がこう言った『家族全員
で引っ越せ。社宅と学校は会社で手配するから心配するな』だと」
「『心配するな』と会社は簡単に言うけど、引っ越す側にとっては結構気を使うんだよなー」双子
の兄・悟(さとし)は少し心配になってきた。口には出さないが妹も妻も気持ちは同じであろう。
「こればかりは会社命令だから仕方ない。たとえ東京でもアメリカでも住んでみない事には始ま
らない。すぐには慣れないかもしれないが時間が解決するだろう」
 そう言って父は家族を説得した。そしてすぐさま会社に電話をかけ、転勤了承の旨を手短に伝
えた。電話を切るとまた話を始めた。
「来月からうちが引っ越す場所は東京の目黒というところだ。そして子供たちが行く学校は私立
の麻布が丘高校だ。うちの社長とその学校の校長が知人で、編入入学を許可したとの事だ。
 東京に着き次第面接をするのだがおそらく編入は問題なく出来るであろう」
 編入入学。2人にとっては聞きなれない言葉だ。要は今の単位を持ったまま東京の高校に行
けると言うことであろう。しかし同級生の友達に別れを言わずに北海道を出るのは少し辛かった。
 友人が多い沙奈にとっては苦痛に近かった。今更となってはもう遅すぎる。
「会社の手配によって明日引越し業者が来るから。今から持っていく物の整理をしておきなさい」
 二人にとって正に不意打ちを食らった感じであった。
「もっと速く知らせてくれれば良いのに!」悟は憤慨した。
「これが本当の『大人の事情』ってやつ?」沙奈はこういった時はすばやく反応する。
「そうかもな。東京に住めるのは嬉しいんだけど……」
 二人の部屋は2階の8畳間で、部屋の中央を机で仕切っている。男女の双子ということを想定
していなかった間取りだが母のアイディアでお互いのプライバシーは一応保たれるようになって
いる。しかし双子の兄妹であることに変わりなく、
「何で私の引き出しにお兄ちゃんのパンツが入っているの?」
「俺が入れたんじゃない。きっとお袋が間違って入れたんだよ」
「じゃあ本棚に入っている雑誌は?」
「ゴメン、これは散らかっていたからついしまっておいたんだ。返してよ」
 普段は部屋の片付けなどした事の無い悟も何となく私物をまとめると、一通りの整理を終えた。
「やっと終わったよ!……って、沙奈はもう寝ているのか。はえーな!」
「友人にメールしてるの。お兄ちゃんも連絡はしたほうが良いよ。ガールフレンドとか……」
「そんな子いねーって!親友には今からメールしておくよ」
 時計の針は午前1時を指していた。
 悟は数件の送信で済んだが、沙奈は多くの友人やメル友がいるので全てに送信し終えるの
に小一時間かかった。

 翌朝。
 二人は引越し業者の話し声で目が覚めた。
 母が部屋に朝食のコンビニおにぎりとペットボトルの緑茶を持ってヅカヅカと入り込んだ。
「二人とも速く着替えて身支度を整えなさい!」
 今日が引越しの日と言う事が頭になかった悟は慌てふためき、
「昨日父さんが話していたじゃないか」
 沙奈がフォローしてくれて事の重大さにようやく気づいたみたいだ。
「身支度って?」
「今日から東京に引っ越すのよ。それの準備じゃないの?」
「旅行と同じスタイルでいいのか?」
「そんな感じで良いんじゃないの」
 今ひとつ引越しの雰囲気が感じ取れていない二人であるが、何処となく心がうきうきする。
 階段を下りると既に台所もリビングも家財が運び出されている。本当に引っ越すんだという思
いが強くなった。
 沙奈は友人が多いこの町を離れるのが寂しく、我が家がだんだんとがらんどうになっていく様
を見て、苫小牧との別れをひしと感じている。親の都合とはいえ何処となく腑に落ちない。
「東京できっと良い出会いがあるよ」という悟の言葉に少し癒された沙奈であった。
 母がやってきた。既に用意が出来ているらしくリュックとかばんには引越し後の生活用品が詰
まっている。
「父さんは3日前から転勤になるかもしれない、って私には話していたのよ」
「だから用意周到なんだ」
「せめて私には教えてくれたって良かったじゃない!」
 沙奈の目は真剣だった。けど母は転勤話が本決まりになるまでは言わなかったのであった。
今回はこれが裏目に出てしまった形になった。
「それでは空港に向かいましょう」
「親父は?」という悟の言葉に、
「とっくに支度を済ませて市役所で届出を出しているから。空港で待ち合わせしている」
そう話している最中も引越し業者は手際よくトラックに積み込んでいる。すると玄関前に一台の
タクシーが止まった。
 運転手が、
「岡村様、お待たせしました」
 このタクシーも父の会社で手配したらしい。
「なんとも用意周到なこと」
 悟は唖然としてきた。こんなにお膳立てしてくれて嬉しいやら迷惑やら後が怖いやら、といった
言い方だった。
 見慣れた町並みや市街地の風景が車窓から流れていく。これで見納めとなると沙奈は少し感
傷的になった。
 新千歳空港では、既に父が先に着いていた。どうやら電車で来たみたいだ。父の会社が航空
会社だけあって羽田行きの航空券もちゃんと用意してくれた。
 悟がお膳立てと言っていたが正にそうなのかもしれない気がしてきた。
「さあ出発だ。飛行機に乗り込もう」
 12時20分、一家4人が乗った飛行機は定刻どおり新千歳空港を離陸した。
 飛行機は羽田に向かって順調に進んでいる。いよいよあと数時間で憧れの東京での生活が
始まるんだ、と思うと悟も沙奈も期待と不安で一杯だ。
【続く】