11、ぼたん雪  「大雪と老人」
 日本海側を中心とした雪国ではごく普通の事なのだが、太平洋側では、冬にはあまり雪が
降らない。これは気象・地理上を見ても明確である。太平洋側である関東地方は雪に慣れて
いないせいか、今でも記録的な大雪となると交通機関がマヒしたり転倒による怪我人が増え
たりするのが常である。
 特に今よりも温暖化が進んでなく、交通機関がそれほど充実していない昭和三十年代は、
今よりも大変だったと伺える。

 昭和33年。日本も自動車が本格的に販売された頃である。もちろんまだまだ今よりも性能
がよくなく、現在ではかなり雪が降っても運転に支障がない程度でも降雪時の運転は今より
も大変だったらしい。もっとも当時は一般の運転手は雪が降ると車を利用を控える人も少なく
なかった。雪の日の運転自体慣れていない事もあるかもしれないが、車がまだまだ高価で冬
用タイヤ等の購入や維持にも費用がかかる事もあるらしい。
 そんな雪の日のお話である。
 2月。茨城県のある地方都市。東京に近いせいか、最近になって東京から比較的土地も安
く物価が安く、しかも交通が便利である当地域に引っ越してくる人がちらほらと見受けられる
頃であった。
 その日は日付が変わる頃からぼたん雪が降り始まり、通勤通学の頃には屋根や農地にか
なり積もっていた。ぼたん雪なので相当の降りようだ。
 慌しい時間であるにも関わらず、道路には車が一台も走っていなかった。それもその筈、道
路にも大雪が積もっているので、車の運転すらもできないのである。
 こうなると移動手段は徒歩だけになってしまう。しかも大雪のため一歩一歩踏みしめて進ま
ないと慣れないせいか雪に足を奪われて危険である。
 子供は、たまの雪ということだけで喜んで雪で遊んだりするものだが、とかくご老人になると
雪道を歩くのも難儀になるのである。
 駅に向かう一本道、普段は駅に向かう人で朝夕は結構多くの人が通勤通学のためにこの
道を利用している。しかし記録的なぼたん雪の降る今日は、鉄道も大雪の影響で運休してい
るせいか、通勤している者は人っ子一人いないため、あたりは静まり返っている。
 そんな中、電車が運転していない駅に向かう一人の老人がいた。雪に足をとられながらも
一歩一歩慎重に歩いていた。しかしその老人は途中で足元に気を使いすぎて思わずバラン
スを崩してしまい、転倒してしまった。
丁度その時玄関を開けて家の外に出ようとした小学生がいた。家の前でうずくまっている
老人を見て、
「お母さん!玄関でうずくまっているおじいさんがいるよ!助けてあげて!」と大声で母親を
呼んだ。
 しばらくしてこの家の母親がやってきた。
「おやおや、この大雪で怪我をしたのですね。この状態では歩く事は無理だと思います。こん
な古汚い小さな家でよろしければ、私の所で静養なさってください」と声をかけた。
 老人は「ありがとう。悪いが世話になるよ……」と礼を言った。
 この家は、吉田さんという家で、近所でも世話好きな夫婦がいることで知られている。もと
もと信心深い人柄であるのか、人の情けに弱く、ちょっとした事でも何かしてあげないと気が
すまない性質なのである。
 もっともこ昭和30年代はこの物語の主人公の吉田さんのように世話焼きな人が多かった
に思える。ある意味人とのつながりが親密であった時代だった。
 吉田さんは怪我をしている老人の荷物を持ち、背中を抱えて家に迎え入れた。そして奥の
間に客用の布団を敷いてあげた。老人は吉田さんの心遣いを快く受け入れ、雪が止むまで
の間、静養する事にした。
 現代では到底考えられないが、昭和30年代くらいまでは道端とかで突発的に発生したけ
が人や急病人、あるいは大雪や大雨で家に帰れない人を自分の家に呼び、休ませたり看病
をしてくれた人がいたそうである。
〔困ったときはお互い様〕という考えか、世話好きかはその人にもよるが、このような心温か
い人がいた事は事実だった。
 ぼたん雪は夜になった頃にようやく収まった。けど雪道である事は変わらない。午後あたり
から付近の住民が雪かきを始めた結果、路面はだんだんと雪が少なくなってきた。
 しかし老人は大事をとって一日中吉田家の奥の間で寝ていた。それでいても家族は決して
嫌な顔ひとつせずに見ず知らずの老人を看病し続けたのであった。
 老人が吉田家を後にしたのは大雪が降った2日後だった。その間も吉田さん夫妻は、老人
に食事の用意や応急的な処置は行なっていた。それでも吉田さんは、
「苦しんでいる老人に手を差し伸べて世話する事はある種の功徳(くどく)である」
との持論なので、何一つ文句も言わなかった。
 怪我が回復して吉田家を出て行く時、老人は、
「今までにこれだけ献身的に看てくれた人は誰一人いなかった。おかげで何とか歩けるくら
いにまで回復した。今までこんな老いぼれの老人を看てくれて本当にありがとう……」と礼
を言うと、その老人はゆっくりした足取りで駅の方へと歩いていった。
 通りの所々に雪かきした結果出来た雪溜まりがあったものの、路面はすでに雪がなくなっ
ていた。
それから半年後。夏の暑い盛りの午後、吉田さんの家の前に一台のトラックが止まった。
「こんな暑い日にいったい誰だ?」吉田さん夫妻は不思議に思った。
 玄関を開けると運送会社の運転手がやってきて、吉田さんに「お届け物です」と言うと一通
の封筒を渡した。
 届け主は先月雪の日に怪我をしていたため家で看病した老人からだった。送り状の送り
先を見て吉田さんははっとした。
【東京都世田谷区 大野孝太郎】
 何と吉田さんが看病した老人は実は大手家電メーカーの会長だったのだ。大野氏は終戦
から僅か数年で壊滅的な被害を受けた会社を奇跡的に立て直し、年間数億円もの業績を
上げるまで発展したといったお方であった。数年前に経営を退いた時はTVや新聞を賑わせ
た事もあった。
「こんな【大物】を私たちは世話をしてあげたとは……」
 吉田さんは自分がとてもすばらしい事をしたと事実に気づき始めた。
 トラックには大野氏の会社製の電化製品が数点入っていた。ラジオ・TV・炊飯器・掃除機・
洗濯機……当時としては時代の先端を行く家電製品であった。
 封筒を開けると一枚の礼状が入っていた。大野氏からの礼状には達筆でこう書いてあった。
「吉田様。先日は心ばかりの看護をしていただいて本当に感謝しております。私事で茨城に
来ている最中、突然大雪が降り、帰路の最中に不意にも怪我をしてしまい、私は大変困惑
していまし。その際に吉田様に誠心こめた看病をして戴いた。見ず知らずの人を慈悲の気持
ちを持って接し看病をする、という事は一般人には到底できない行為であり、世話をしても
らった私は今でも大変感謝している。社員に【美談】として訓話したところ吉田様の誠心に大
変を心を打たれた様子でした。この商品は私および社員で出し合って購入しました。拙い(つ
たない)かもしれないがこれが我々からの精一杯の気持ちであります。拙社の商品ではあり
ますがどうかお納めしていただければ幸いです。これからも清い心であり続けてください」
吉田さんは大野氏の心意気に大変感動した。お礼云々の問題ではなく、大企業の会長が一
般庶民に対し、こうやってきちんと礼状を書いて来る事に心意気を感じたのである。
 吉田さんは普段は【見返り】を期待せず、ただ他人の役に立てばいいという考えで世話をし
ていたのだが、大野氏の行動に対しては素直に受け取り、
(大野様ありがとう。お気持ちは確かに受け取りました。戴いた電化製品は我が家で大切に
使わしていただきます)と思ったのである。

 現代は、自己中心的な人間が多くなり、他人に対し無関心な人が多くなり、昔と比べて殺
伐とした世の中になってしまった。こんな時代だからこそもっと人間とのふれあいをもっと大
切にして欲しいと思う今日この頃である。
【完】
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