「謎の風鈴」 (第6回「夏祭り」参加作品)
昭和30年代。
ある程度大きい町の駅前商店街ならどこでもにぎわっていた時代だった。大きなスーパーマーケットが各地に進出していない時期だったので、色々な種類の小売店が狭い
通りに並んでいた。
現代では考えられないが、夕方の時間になると、大勢の買い物客で通りを歩けない状態までに賑っていた商店街も各地にあったという。商店街の各店舗はそれぞれが専
門店なので、どの店もお互いに共存共栄し繁盛していた。
当時は大規模な宣伝をしなくとも【地域住民の台所】として重要な役割を果たしていたが、その影で各商店や商店会の方々のたゆまない努力や結束があったに違いない。
昭和34年。東京の新宿近くにある大学に通う大学2年生のカップル。二人は付き合った当初から大学に程近い町で安アパートを借りて暮らしていた。当時としては珍しい半
同棲生活だった。
そんな二人の生活に変化が起きたのは7月に入ってすぐの土曜日の事だった。
アパートの玄関に張られた一枚の張り紙。
〔御入居者様 諸物価の高騰の為、誠に心苦しいですが、来月より家賃を値上げする事になりました……〕
大学から帰宅してすぐにこの張り紙を見た二人は一瞬言葉を失った。
二人が住む六畳一間の狭い部屋に入るなり、
「来月から家賃が値上げするんだよな……。ここは俺たちのバイトの給料でも借りられて、そこそこ居心地も良かったんだったけど……」
川島大介は、同じ部屋で暮らしている恋人の岡部淳子に話しかけた。
「ここは大学もお店も近くて便利だったけど、家賃が値上げするとなると、今のバイト代だけでは暮らせなくなるね」
「じゃあ、『思い立ったが何とか』と言うんだから、明日このアパートを出て、その足で新しい安アパートを探そうか?」
「私は構わないけど、そんなに簡単にアパートは見つかるの?」
「多分、東京の郊外に出れば安いアパートは一軒か二軒はあるんじゃないの?こればっかりは実際に行って見ないと分からないさ」
「明日いいアパートが見つかるといいね」
そう覚悟を決めると、管理人に家賃を支払い、明日部屋を出る旨を伝えた。そして部屋に戻ると早速二人は家財道具を整理した。
昭和30年代の貧乏学生なので、平成時代の学生のように部屋中に家電製品などが溢れている事はなく、家財道具と言ってもせいぜい衣類と学用品、そして最低限の生活
用品しか持っていなかった。なので本当にかばん一個で引越しが出来る時代だった。無論女子大生の淳子はそういうわけには行かず、衣類だけでも一つのかばんに収める
のがやっとだったが。
翌朝。二人はお揃いの緑色の半袖Tシャツのスタイルで、全財産が入った財布と家財道具を詰め込んだかばん3つを持って、1年以上住んだアパートから退出した。
大学への通学路でもある駅前商店街を抜けたところにある私鉄線の駅。大介も淳子も、明日からここの駅で降りて大学に行くかもしれないと思うと、そんなに名残惜しいと
は思わなかった。
新宿駅から郊外へ向かう私鉄線の急行電車に乗り込んだ二人。都心から逆方向なので乗客もそんなに多くなく、楽に座れた。
「大学から電車で30分くらいの距離でいいところがあれば……」
大介の問いに淳子は、
「そうね。これから二人で住むのだから生活に便利で雰囲気のいい町がいいね。あと家賃が安い所!」
と答えた。
二人であれこれ談笑していると、電車は比較的規模の大きい駅に停車した。プラットホームが2つあり、この駅で追い越される各駅停車の電車が隣のホームに停車している。
「この町なら結構大きそうだ。きっと商店街もにぎわっているだろう」
大介はそう思い、この駅で降りる事にした。
改札を降りて駅から出ると、予想通り駅前から規模の大きい商店街が伸びている。まだ午前中にもかかわらずそこそこの買い物客が商店街に来ている。商店街を構成する
各商店も通りの両側に隙間無く整然と立ち並んでいる。二人は商店街の入り口に立っている大きなポールをくぐり、商店街の中に入った。
まずは今日の【課題】である、アパート探しのために不動産屋に行くのが先決だ。
すると淳子が、「あら、この商店街おしゃれ!」と歓喜した。よく見ると商店街の軒先すべてに風鈴が付いている。入り口の大きなアーチにも、街路灯にも、消火栓ポールにも、
そこかしこに風鈴が付いている。きっと商店街に一陣の風が吹くと、あちこちの店から心地よい風鈴の音が聞こえてくるのだろう。そんな風景を淳子は想像した。
「私この町気にいった!」
淳子はもう満面の笑顔を浮かび始めている。大介も彼なりに風情を感じ取った。
(きっとここの商店街は客寄せに積極的なんだ)と経営学部に一応在籍している大介は思った。
ここなら通学するにもそんなに遠くないし、生活環境は良さそうだし、住むには最適だろうと思った。当てずっぽうとはいえ、いい町を見つけたな……と自分を褒める大介。
商店街の中心部で一軒の不動産屋を見つけると、二人は意気揚々と店内に入った。
50歳くらいの眼鏡をかけている店主は、大介がぱっと見た感じ、どころなく気さくな人みたいだった。店主は、二人のお揃いTシャツ姿の様相を見るなり、
「おやおや、新婚さんとは珍しい。……ご新居をお探しですか?」
と尋ねてきた。全く思っても見なかった言葉に淳子はほほを赤らませ、大介はどぎまきした。大介は、
「新婚さんだなんて……まだ結婚してないですよ。僕たちは学生で、二人で同居する部屋を探しているのです」
と答えると店主は、ますます興味深そうに二人をまじまじと見始めてきた。
「これはこれは失礼しました。とするとアパートをお探しですか?」
と襟を正してきた。
店員は、二人に店の真ん中にあるソファーに座るように勧めた。ソファーにはソーダ水が入ったコップが2個置かれている。
ソファーに座るなり早速大介は、
「見ての通りバイトで生計を立てている貧乏学生だから、なるべく安い部屋があれば……」
とやや遠慮そうに答えた。
すると店主はやや怪訝そうな顔つきをして、
「まあ、安い物件はあるにはあるのですが、あなた方お二人が住むにはやや問題があります。それでもいいですか?」
と言って来た。もちろん多少のリスクは覚悟していたので、
「それでも構いません。僕たち今日、今まで住んでいたアパートを出て来たばかりで、今は家なしの身なんです!……お願いします!」
と答えた。
店主は少し考えた後、書棚にある大きなファイルを取り出してきて、ファイルの終わりの方のページを広げると、
「これならどうでしょうか?築20年、和室六畳・トイレ兼用・台所無し、駅徒歩15分、家賃月5000円」
とファイルを見ながら淡々と話した。
ちなみに、昭和30年代のアパートの家賃は【一畳千円】という大雑把な相場が広く知られていた。つまり、六畳一部屋のアパートの基本的相場は6000円(現在の価格に換算
すると約6万円)であった。なので六畳一間5000円は、当時の相場からしても安い部類に入る。
それでも二人はやや不満そうな顔をした。
「昨日まで住んでいたアパートが六畳一間4000円だったから、もう少し安いのがあれば……」
淳子は他に安い物件があるかどうか店主に頼んでみた。すると店員はますます困惑して、
「一応これより安い物件は一軒あるのですが、かなり曰く(いわく)のある物件なのですが……」
との言葉でいったん店主は沈黙した後、
「もし良かったら……」
とトーンを落として再び二人に話しかけた。
二人はなんだか嫌な気がした。大介は念を押すように、
「その安い部屋は間違いなく人が住めるのですよね。天井がない部屋とか、すぐ床が抜ける部屋とかじゃないですよね!」
まるで詰問するように店主に言った。店主はその問いに対し怒りを抑えつつ、
「そんな欠陥物件なんてうちでは絶対に貸しません!……実は、その『曰く』というのは……、いや、ここでは言いにくいですが……まあ、実際現場に行って確かめた方がい
いでしょう」
と話した。店主の顔がやや引きつっているのが二人にはっきりと感じ取られた。
とにかく安さだけに惹かれて、とりあえず見るだけでも、と思い、二人はその【曰く付き物件】を案内してもらうことにした。
二人は店主と一緒に店を出ると、不動産屋の斜向かいにある古い二階建ての建物に向かった。そこは一階は雑貨屋になっているが、店の脇に外階段があり、二階部分
はアパートになっている。商店街に面しているので風鈴もちゃんと付いている。
店主は外階段を上がってすぐの二階の一番手前の部屋の鍵を開けた。室内の外見はやや古いが、六畳間の部屋とその奥に三畳間がある。三畳間の脇にトイレがあり玄
関の隣に小さい流し台も付いている。二人が以前住んでいたアパートよりも広く、二人には十分すぎる部屋と言ってもいい。
「これで家賃が月1000円ですか?信じられないなあ!?」
と大介は疑問に思った。もちろん前述の【一畳千円】を当てはめても、この部屋なら普通は月1万円くらいするであろうから、月1000円なら超破格値だ。
それを察知したのか店主は小声で、
「これから私がする話は絶対に他言無用です。いいですか?約束ですよ!」
と迫ってきた。二人が思うに、店主の様相からしてかなり曰くがありそうだ。
店主はやおらカーテンを閉めると、非常にゆっくりとした口調で、
「実は……この部屋で1年前……」
と言った所で店主は話を止め、左手首を二人の前に差し出し、右手の人差し指を手首のところで真横に動かした。
「……もしかして……自殺!?」
淳子はやや顔をしかめながらも答えた。
店主は淳子の突然の発言に対し、突然大げさに手を振りながら、
「お嬢様、声が大きい!他言無用の案件なのでどうかお静かに…………まさにお嬢様のご察しの通りです」
三人は暫しの沈黙の後、薄暗くなっている部屋で店主の話が続いた。
「……1年前、この部屋を借りていた女子大生が、ある晩恋人に振られたのを苦に、包丁で手首を切って自殺したのです……」
この衝撃的な事実に二人は思わず息を飲んだ。淳子の顔がわずかに蒼くなった。それでも店主の話は続いた。
「その後遺体を遺族に引き取り、血痕で汚れた畳を取り替えました。けど……」
こう言うと店主は話をやめた。
長い沈黙の後二人はぞっとした。
「……もしかして……霊!……まだこの部屋に…………!!」
大介がつぶやくと、それに呼応したのか店主は、手首を曲げて両手の甲を胸の辺りに置き指を下にした格好で、
「……霊がこの部屋にいる可能性が高いです。その証拠に……」
と店主は答えると、突然立ち上がりカーテンを開け窓を開けた。商店街側の部屋なので窓には風鈴が吊るされている。
「!!」
淳子が風鈴に目をやると突然風鈴が勢い良く鳴り出した。淳子が窓を乗り出して道路の向かい側の店の風鈴を見ると、全く鳴っていないのが見えた。
店主は二人の顔色をまじまじと見つめながら落ち着いた声で、
「今あなたが目にした通り、風が吹かないのに風鈴が鳴り、嵐なのに風鈴が鳴らない、そして取りはずそうと力一杯引っ張っても絶対に取れない。そんな謎多き風鈴です。
この現象は絶対に科学では解明できません……すなわちこの風鈴に彼女の霊魂が残っているに違いありません」
と語った。
思いのほかに困惑している二人を見ながら店主は、
「お二人を脅かしてしまったようで相すみません。……これ以外はこの部屋には別段変な現象はありません。ならば絶対にそれ以上の怪奇現象はないと私が断言します。
風鈴を除けばどこから見てもごく普通のアパートの部屋です。考え方を変えればこれだけ格安の物件は絶対都内ではないはずです。……ただ秘密を守ってくれれば……」
こう言い終ると店主は、
「とりあえず私は店に戻ります。この部屋でゆっくり確認して、もしお二人が納得するならば夕方までに私の店に来てください。もし少しでも嫌気がさしたならこの部屋で私が
話した内容は全て忘れて頂き、そのままお帰りになられて結構です。鍵は後で閉めますから……」
と言い残すと部屋を後にした。
部屋は二人だけになった。窓際では相変わらず風鈴が涼しげな音色をたてている。
「さっきの店主、本当に薄気味悪い感じだったね。急に幽霊の格好をするし…………ところでどうする?俺は霊なんて怖くないから、ここに住んで大丈夫だけど……淳子、どう
する?淳子が嫌なら別の町で探せばいいだけだから。まだ午前中だし、きっとここよりもましな部屋は見つかるはずさ!」
大介は、さっきからずっとうつむいている淳子にこう尋ねた。
淳子はもう一度風鈴のところに行った。風鈴は朱色に近い赤色で、赤い短冊が付いている。
短冊には何やら漢字がびっしりと書かれている。流暢な文字で、【般若波羅蜜多――】と書かれているが、何を意味しているのかは分からなかった。どう見てもごく普通に売
られている風鈴で、ぱっと見た感じでは特に霊が取り付いているとは思えない。
しばし考えた後で、
「この風鈴が私たちに悪さをしなければ、私はここに住んでいいわよ。……だって、考えを変えればロマンチックじゃないの!風が吹かないのに鳴る風鈴なんて日本中どこに
も無いじゃないの!……けど、風鈴が私たちに危害を与えた時点で私はここから出て行くわよ!それでいいね」
淳子の意外な発想に大介は少し戸惑ったが、良く考えてみればこの不思議な風鈴。霊の存在さえ度外視すれば、女の子が好むような要素があるのかもしれない。確かに
ロマンチックであり、かつミステリアスな、それでいて少々わがままな風鈴に淳子はどことなく人間臭さを感じたのであろうか。
「よし。そうなればこの部屋に決めよう。今日から俺たちはこの町に住もう!」
大介はこう決意した。そして荷物を3畳間に置き、部屋の鍵をかけると、二人で不動産屋に行って契約の手続きをした。
こうして、二人は少々【不思議な難あり】ながらも超破格値のアパートに住むことになった。
二人がアパートに住むようになって半月。大介も淳子も引っ越してすぐに新しいバイト先が決まり、慣れない町で大変ながらも楽しい新生活を送っている。幸いこの町は前
住んでいた町と比べていい人が多く住み心地が良かった。商店街にある各商店の店員も皆親切で、たまに代金を負けてくれる店もあるし、アパートの住人も一階の雑貨店
主も二人が若い事も手伝って、いろいろと親切に応対してくれている。
時には隣の部屋に住む人から、
「ついつい多く作っちゃったので、おすそ分けに来ました。お二人で食べてください」
と手料理を頂く事もあった。
それに、霊が宿っているらしい風鈴について、商店街付近の住民の誰もが知らないし、銭湯の湯船で何気なく隣になった人に話しかけても初耳だと言う人ばかり。これは
二人にとって結構意外だった。
「と言うと、あの不動産の店主と私たちしか知らない事なのね」
淳子はこうつぶやいた。まあこの事は風鈴の霊は変な悪さをしないと言う事が確立したようなもので、淳子もようやく安心するようになった。
8月に入ってすぐのある日。
「やっぱりこの町に住んで正解だったね!」
淳子が事あるごとに大介に交わす言葉だ。大介も、恋人が喜ぶ姿はいつ見ても嬉しいので、
「そうだね。前住んでいた町よりもずっと住みやすいな」
と自分の感想を述べた。
「何と言っても、商店街のどの店にも風鈴が飾っているのが素敵じゃない!こんな味のある商店街って結構珍しいんじゃない?……きっと秋には紅葉の飾り、冬には正月飾
り、春には桜の飾りを各店に飾るんじゃないの?その様子も私、早く見たいな!」
「淳子ったら、もう次の季節のことを想像しているよ。……本当にこの商店街が気に入ったみたいだね」
そんなたわいの無い会話をする二人をよそに、風鈴の音と蝉の鳴き声が容赦なくアパートの部屋にも聞こえてくる……。
その懸案の風鈴だが、風任せになるその他大勢の風鈴とは裏腹に、気まぐれに鳴ったり鳴らなかったりと相変わらずだったが、不思議なことに淳子が近づくと決して風鈴
は鳴らず、大介が近づくと風鈴は心地よい音色で鳴るのだった。
賢明な読者ならお分かりであろう。風鈴は不動産店主の言ったとおり女子大生の霊魂が宿っている。【彼女】は恋人に振られて自殺したのである。その恋人がなんと大介
に似ていたのである。
すなわち風鈴に宿っている霊は淳子には妬いて、大介には好意を持っている。いわば風鈴にとってみたら、別れた恋人が再び戻ってきた事と同じようなものである(実際に
は違うが)。これによって自殺した女子大生の霊は次第にこの世への恨みや未練が消えていって少しずつ昇華されていった……。
そんな風鈴に最大の好機が訪れたのは8月の中旬頃であった。
淳子は8月10日から実家のある山形に帰省していて、アパートの部屋に残ったのは大介一人。さらに隣の部屋に住む住民も旅行で留守にしている。
盂蘭盆(うらぼん)の入りの日の事……。
あちこちの家の玄関で迎え火を行なっている。
今では生活の変化等によって特に都心部ではあまり行われなくなったが、昭和40年代くらいまではお盆の入りになると各家々の玄関や門前に麻幹(おがら)を焚いて先祖
の霊を迎えていたものである。つまり一年で一度この盂蘭盆の期間だけ先祖が下界に下りてくるのである。
そんな盂蘭盆の時期、普段は風鈴の中に籠っていた女子大生の霊も、アパートの外から何人もの霊たちがそれぞれの家に向かっている様子を目にしていると、次第に中
でじっとしていられなくなり……。
大介がアパートの六畳間で一人夕飯を食べていると、突然風鈴が勢い良く数十秒間鳴り出したのだ。この奇妙な現象を受け、大介は箸を置き食事を中断すると風鈴のあ
る窓際へと向かった。するとかすかな声が聞こえてきた。
「こんばんは。今日という日を待ち望んでいました。私はこの部屋の風鈴に閉じこもっていた霊。俗名(ぞくみょう)を弘美といいます……」
大介はその声を聞いてびっくりした。何しろ非生物である風鈴から声がするのだから。恐怖心はないものの顔の表情は少し蒼ざめ、額からは冷や汗も流れ始めた。いくら怖
いもの知らずの日本男子と云えども無理の無いことである。
【声】はだんだんと大きくなり、やがて弘美の霊魂は、幽霊の姿となって大介の許に現れた。大介には霊力は持ってないが、今日は特別に弘美の霊だけは姿が見えるのである。
弘美は幽霊になってしまっているので表情は硬いものの、見た目は女子大生だけあって結構美人だ。
大介は深呼吸し、少し落ち着きを取り戻しながらも、
「弘美さん……でしょうか。はじめまして、と言うのは少し変かもしれませんが……。今あなたの姿を見ましたが僕から見てもとても美しい女性です。なぜあなたがこのような目に
遭い、しかも成仏できずにこの部屋に籠ったのかは僕には理解できませんが、さぞかし辛かった事でしょう……」
と当たり障りの無い言葉を返した。
弘美は、
「あの日以来私の霊魂は運良く風鈴に憑依(ひょうい)する事が出来、振られた無念とこの世への未練が故に連日連夜狂い響いていました。しかし先月の始め頃、あなたがこの
部屋に来てから、私は少しずつ変わってきました。あなたが部屋にいる事で前の恋人に再会できたような気になり、それによって私の心も癒されました」
弘美の話を大介はじっと聞いている。
「けど私の肉体は荼毘(だび)にされた今では骨と灰だけになり、霊だけこの世に留まってしまった状態。人間のあなたを愛しても私は所詮姿形の無い霊体。決して報われない事
ですし、もちろん恋人のいるあなたと結ばれる訳はないですし、かえってあなたを混乱させるばかりです。今では来世であなたのような人とめぐり会えるよう祈るばかりです……」
弘美は心境を切実に語った。大介は幽霊相手と言うことで少し警戒しながらも思い切って弘美にこう語った。
「弘美さん、あなたはなぜ成仏できずに、このアパートに留まってしまったのですか?恋人に振られたにしては、怨念が込められている様子でもないですし、振られた恋人を恨むな
らその恋人の許に留まっているのが普通でしょう」
「確かに私はあの人への恨みも怒りも無くなりましたし、今思えば振られても仕方なかったと思います。……ただ、この世でやり残した事が出来ずに成仏できなかったのです」
「この世でやり残した事って?」
「実は、私は【愛情】と言うものに幼い頃から満足に受けられなかったのです。3歳で母は亡くなり、父も多忙だった為、私は祖父母に育てられました。学校では男友達は出来ず、
大学のとき始めて付き合って、振られた恋人とも手をつないだだけ……」
「外見では分からなかったけど、なんだかさびしい人生だったのですね。だから僕が風鈴に近づいたら嬉しそうに鳴らしていたのですね」
「そうです。私は誰からも愛されなかった。なので一度でいいから人を愛したかった。一夜限りでもいいから愛する人と抱き合いたかった……」
大介はこの言葉を聞いてはっとした。弘美の現世での仮の【体】が風鈴ならば……。
そっと風鈴に触ってみたところ、不思議と温かみがあった。そして少し力を入れたら今までどうしても取れなかった風鈴の糸が簡単に外れた。そして弘美の【体】である風鈴を
両手に抱え大介の胸に軽く当てた。風鈴はさっきよりも暖かさが増してきた。
弘美の声は今までより張りが出てきた。
「私はあなたに抱かれている……今までかなえられなかった夢があなたによってかなえることが出来ました。今私は幸せです。おかげさまで私は、今日成仏することができます。
短い間だったけど一緒にいてくれてありがとう…………」
窓の外を見上げると、安らかな顔になった弘美の幽霊がゆっくりと天に昇っていく。
「ありがとう。そしてさようなら……」
大介に向かって微笑みながら、弘美の幽霊は絶世の美女の姿になって天に昇っていく。そして大介に向かって精一杯手を振りながらだんだんと姿が小さくなり、やがて弘美の
幽霊は小さな【星】となって夜空に輝いた。
ふと部屋を見下ろすとそこにはさっきまで抱いていた風鈴が畳の上に転がっている。まるで血のようなだった風鈴の色がほんのりとしたピンク色に変わって、短冊も般若心経
(はんにゃしんきょう)から朝顔の絵柄に変わっていた。
大介のおかげで、部屋の風鈴に憑いていた弘美の霊は無事に成仏されたのだ。
お盆の夜、世にも不思議な、それでいて夢のような体験をした大介であった。
淳子がアパートに戻ってきたのは8月下旬であった。
大介は淳子に、お盆の夜の不思議な体験を話した。それを聞いて淳子はほっとした反面、
「この風鈴の中に霊として籠っていた、弘美さんっていう人、かわいそうな人生だったんだね……」
と語ってくれた。けど二人にとっては、気まぐれで人間臭くちょっと謎めいた風鈴も、恐ろしくもなかなか楽しい思い出であったことには違いない。
部屋の片隅に小さな木箱を置き風鈴を供え、その脇に線香と花を置いた。そして二人は風鈴に手を合わせて弘美さんの冥福を祈った。
家賃の支払い時にこの事実を不動産の店主に打ち明けたところ、店主は喜び、そのお礼にと、ずっと家賃を安いままにしてくれた。
2年後、二人は大学を卒業しアパートを出た。
その間にもいろいろな出来事はあったが、やはり大介にとっては、あのお盆の日の一夜は忘れることの無い不思議な夏の思い出として、今でも心の隅にしまっている。
もちろんあの風鈴は普段は取り外され、他の多数の風鈴と同様に7月・8月だけ飾られるようになった。
それから数年後、社会人になった二人はそれぞれの親にも会い、会社の近くにある埼玉県内のアパートで結婚を前提とした同棲生活を続けている。
7月初旬の日曜日。
東京都多摩地域の商店街で風鈴飾りが始まったという新聞記事を見て、
「これって大学生の頃に住んでいた町じゃないの!久しぶりにこれから二人で行ってみようか?」
と言う淳子の問いかけに応え、久しぶりに新宿駅から私鉄の急行電車に乗り、久しぶりに駅に降り立った。
初めて駅前商店街に来た日と当時と同じように、商店街の通り沿いの全ての店などに風鈴が付けられている。その様子に二人は感動した。あの時過ごしていた頃の
色々な思い出話をあれこれ語っていると、例の不動産屋の近くに着いた。
そしてかつて住んでいた雑貨店の2階にあるアパートの部屋にも例外なく【あの風鈴】が吊り下がっている。
大介がその風鈴を見た瞬間、あのピンク色の風鈴だけひときわ大きな音色を鳴らした。その様子を見て大介は一言。
「……偶然だよね?」