8、ホタル 「ホタルが飛び交う家」
(活字中毒支援サイト「novela」参加作品)
 ホタルは川の汚れにとても敏感な昆虫で、水の綺麗な流れでなければ生活できません。
かつては全国いたるところの河川でホタルの姿が見られたそうです。
 これは各地の河川で普通にホタルの姿が鑑賞できたころのお話である。

 昭和33年。埼玉のとある川沿いに住む武田さん一家。商店経営をしている為一日中自
宅で生活している。
 この辺りは秩父山地も近いので比較的人口が少なくのどかな地域である。だから商店と
言っても食料品から日用品、雑貨や文具書籍まで幅広く取り扱っていた。いわゆる万屋
(よろずや)である。平たく言えば昔のコンビニエンスストアと言ったところか。
 かつてはどんな集落にも必ず一軒か二軒位は万屋があり、付近住民の大切な店として
営業をしていたのである。
 武田さんの店は、家のすぐ裏手が川になっているので、少し時間があれば河原まで行っ
て散歩も釣りもできる。
 そして何よりも6月頃になるとホタルが河川沿いに生息しているらしく、自分の家の縁側
からホタルの姿を鑑賞することができるのであった。
 時には縁側だけではなく部屋までホタルが入ることがあった。
 今年も武田さんの好きな季節がやってきた。
 家の裏が川と言うのはとても風情がある。川から来る風も心地いいし、せせらぎの心地
よい音が心を和ませる。
 たまに来る台風で河川の水位が上昇して困る時はあるが、台風が来る前から洪水対策
をしていればそれほど大きい被害は受けない。
 そして最大の魅力がホタルだ。毎年見頃になると夕飯後毎日のように縁側に座り、ホタル
の飛ぶ姿を眺めている時間が一年で一番の至福のときであった。もっとも見はじめの時期
の6月ごろは夕涼みをするにはやや寒いけれど。
 もちろん武田さんの家はそれだけ環境がいいところなので、毎年ホタル目当てに各地から
親戚がやって来るのも無理はない。親戚が来たら、武田さん一家は喜んで親戚たちに家の
【桟敷席】でホタルの鑑賞をさせている。
 ある日、名古屋から来た長男一家が武田さんの家にやってきた。長男一家は全員ホタルの
幻想的な発光に心を奪われ、そして大いに感動してくれるのである。特に子供は生まれて
始めて見るホタルの姿にとても興奮していた。親戚とともにホタルを見る時間は武田さんに
とって一番の時間であった。
 今ではかなり山奥に行かないと考えられないことであるがまだまだ東京近郊でも自然が
溢れていた時代。その年代が武田さんにとって一番いい「時代」だったのは言う間でもない。
 昭和も30年代後半から40年代になるにつれて、次第に工業化・都市化の波が埼玉にも
押し寄せはじめてきた。
 けれどその頃になっても山間部と言う地理的環境の恩恵を受けて武田さんが住む地域で
はまだまだ都市化の波が押し寄せることはなく、昔ながらののどかな風景を保っていた。
 だから昭和40年代に入っても一家は夏になると縁側に出て夕涼みを楽しんでいた。川の
方は数年前に行なわれた大規模な治水工事によって、台風が来ても家まで浸水するよう
な被害はおかげさまでほとんどなくなった。ただ、武田さんが思うに、かつての頃と比べて
ホタルの数が少なくなってきたみたいなのである。
「今年はホタルの姿が前より少なくなってきたな……」武田さんは夏が盛りになるといつもそ
んな事をつぶやくようになった。
 そして昭和も40年代後半になると武田さんの家のある川で、ついにホタルの姿を見かけら
れなくなくなったのである……
 その頃より少し前に、武田さんが住む川の上流で、山を切り開いて住宅団地や工場が建設
されたのである。おそらくこれが原因なのであろう。
 埼玉ばかりではなく、日本国内でも彼方此方で工業化や都市化に伴う環境汚染や公害問
題が深刻になり、連日新聞やTVで報じられていた時であった。
 それと時同じにして自宅の裏の川も上流からの排水により汚れが目立つようになり、川から
悪臭もするようになった。
 その頃から武田さんは縁側に出て涼むのをやめた。今まで楽しみにしていた川遊びも釣りも
できない【死の川】に化してしまったのであった。
 そして一家も夏が来てもホタルの話もしなくなり、かつてのようにホタル鑑賞目的で親戚が
来る事も途絶えてしまった。
「あの頃の清流はどこに行ってしまったのだ……」武田さんが嘆く日々が続いた。

 それから数年後のある夏。
 前日長男の家の30歳になる息子さんが交通事故で亡くなったという知らせを受け、武田さん
は店を臨時閉店して急遽名古屋まで葬儀に参列してきたのだった。
「やれやれ、真夏の葬式は暑くてたまらないな……」自宅に戻り礼服から普段着に着替える
時、ふと武田さんが窓の外から川を見ると、前よりも川の水が透き通った感じになっているの
を目にした。
「まさか……」そう思い窓を開け縁側から河川敷に降りた。
 確かにかつての一時期と比べて水の汚れは改善されている。ちょうどお盆の期間だから工
場も操業を停止しているからかなと考えた。
 理由はそれもある。けどもっと大きい理由がそこにはあった。
 実は武田さんが知らないうちに川の流域に下水道が完備された事によって、河川が生活廃
水によって汚れなくなってきたのである。
 その日の夜。武田さんの奥さんが何気なしに窓の外を覗き込むと、縁側のあたりで小さい灯
がひとつ灯ってるのを目にした。武田さんが「もしかしたら……」と思い窓を開けると、その灯は
自分から部屋の中に入ってきたのである。
 その正体は紛れもなくホタルだ。武田さんは久方ぶりに見るホタルの姿に思わず感動を禁じ
えなかった。
 するとホタルの体からかすかな【声】らしきものがしたのである。
〔この川も環境運動が高まって河川浄化もされてきています。もうすぐホタルが飛び交うような
清流になるでしょう……〕
 それはまるでホタルが武田さんにメッセージを伝えにきたかのように思えた。
「けどいくら河川が浄化されてきても一時的なんだし、ホタルが一匹だけ舞っているのも何か変
だな……それに自分から部屋に入ってきた……それに今はホタルの見られる時期からも少し
ずれているし……」と考えてみた。
(もしかして……)しばらくの沈黙の後に武田さんはあるひとつの結論に達した。
(あのホタルは先日亡くなった名古屋の長男夫婦の息子さんの霊かも!?ホタルが好きだった
子が、死んでホタルに生まれ変わり、ワシにメッセージを伝えたいが為にここにきてくれたのか!)
 彼がそのような結論に達した瞬間、部屋にいたはずのホタルの姿は突然どこかに消えてしま
っていた……時は8月15日。ちょうどお盆の時期である。短い時間であったがなんとも不思議な
出来事であった……

 翌年。武田さんは県内の環境保護団体に参加した。そして高齢の身でありながらも、川の流
域の河川浄化運動のプロジェクトチームの代表になった。
 武田さんは自らの店の経営をする傍ら、年齢を感じさせない精力ぶりで、付近住民の環境保
全運動や河原や川岸のごみ拾いなどの事業をを積極的に活動している。
 もっとも流域の下水道整備は県や市町村の仕事であるが、それも昭和60年代から少しずつ
であるが整備しつつある。もちろん個人でできることは微々たる物ではあるが、武田さんは家
の前を流れる川をかつてのようにホタルが飛びかうような清流に復活する事を祈りつつ、今日
も河川浄化の運動に取り組んでいるのである。
 そう、あの時に【ホタル】から教えてもらったメッセージを皆に伝える為に……
【完】
参考サイト:北九州市建設局・ほたるのふるさとづくり http://www.qbiz.ne.jp/cecera/hot aruf/
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