1、夜桜 「夜桜会」
 世の中には【宴会】というものを好きな人と嫌いな人が存在する。どの会社にも必ず一人は
宴会好きな人が居て、やれ新人歓迎会だ、やれ花見だ、やれ暑気払いだ……と何かにつけ
て飲み会を企画し、社員に手当たり次第に飲みに行こうかと誘うのである。
 もちろん社内の親睦の為に多少の酒席は必要ではある。よく「酒は社員の潤滑剤」とも言わ
れていて、会社帰りに同僚を連れて必ず呑みに行く人も多く、事実夕刻の居酒屋や大衆割烹
には連日連夜多くの会社員の人が飲みにきている。
 けど社員の中には酒を飲んで騒ぐ事が好きではない人や、体質的にアルコール類を飲めな
い人もいるの事実である。
 それでもその「宴会部長」の勢いについつい乗ってしまって、あまり乗り気ではないのになん
となく飲み会に参加してしまう人も出てくるのである。

 昭和39年の東京。都内の小さい建設会社「和田建設」。中小企業なので、本社は神田にあ
る雑居ビルの3階に事務所を構えているにすぎない。
 会社全体でも100人に満たない小さな企業なので、本社といえども社長室とせいぜい庶務課
と営業課しかないのである。
 本社で働く営業課の社員の平山は、根っからの酒好きということが社員の間で知られている。
なにしろ平山の実家は新潟県であり、代々造り酒屋をしているのだから当然といえば当然で
あるが。
 そのため酒には多少なりとも知識(うんちく程度だが)も持っている。
 彼は酒無類の好きなので、会社の忘年会や新年会はもちろん、どんな場合でも(私生活で
も)酒が入るところなら喜んで飛んで行くのである。もちろん会社でも彼が新入社員の頃から
会社の人が企画する飲み会にはどんな場合でも必ず参加している。
 季節は春。平山はちょうどあちこちの名所で桜の花も咲いているということで、近いうちに
夜桜の下で花見の会でも開こうかと思った。
「今度の土曜に夜桜会を開く!7時に上野公園に集合!会費は会社もちなので無料!ぜひ
参加を!」と会社の掲示板に手書きのポスターを張って社員に伝えた。もちろん【夜桜会】と
いうのは平山が勝手に付けた飲み会のタイトルである。
 社内の酒好き連中はもちろん、そうでない人も桜の花見たさに夜桜会に参加する人が殺
到し本社社員の大半が参加したのは言う間でもない。
土曜日の夜。神田の本社から社員の大半が上野公園にと足を進める。徒歩で行く人・電車
で行く人・車で行く人……確かに数駅程度の距離なので歩いても1時間くらいで上野に到着
する。飲んだり食べたりする前のちょうどいい運動になる。
 上野公園では当日休暇をとっていた平山が既に場所を確保していた。普段はそれほど仕
事に熱が入らない平山も、このときばかりはまるで人が変わったように一生懸命働いている。
 この会の【スポンサー】でもある社長・重役も集まり【夜桜会】は華々しく始まった。もっとも
料理はいつも昼食の弁当を依頼している仕出し料理屋のものだし、酒も平山の家の酒蔵か
ら送ってもらった2級酒なのだが……けど料理はそこそこおいしく作られていたし、新潟の蔵
元から送られた酒もまろやかな甘口、さらに目の前には満開の桜、という事で参加者はみな
大満足であった。
 社長の挨拶もほどほどで切り上げられ、皆の調子が高まったときに重役の乾杯の合図で
一気に盛り上がった。
 酒が好きな人は乾杯と同時に桜はそっちのけで飲み食いに励んでいた。もちろん平山もそ
の部類に入る。けど酒がそれほどでない人は茶や水をすすりながら料理や海苔巻きを食べ
ている。もちろんライトに照らされた桜の美しさに見惚れながら……。
 平山は酔いが回るとやたらと話したがるタイプだ。けれど愚痴や悪口や説教でなく、「酒の
薀蓄」なのであるから他の社員には不評である。
 平山はさっそく杯を手にしながら、隣に居た社員に
「……そもそも【酒】と言うのは、蒸した米に米麹(こめこうじ)と水を加えて発酵させたものな
のだよ……」とお得意の酒談義が始まった。
 普段は酒好きで明るい人なのだが、この「薀蓄(うんちく)」さえなければもっと楽しい人なの
に……と思う社員は多い。けど酔いがまわっているせいか意外としつこいのであった。けどそ
の事実は当の本人にはまったくわからないのである。
「……日本全国に酒造会社が2500軒ほどあり、4000くらい銘柄があるのだよ……最近は大
手企業が幅を利かせてきているが、地方の2級酒もまだまだ隠れた逸品や銘品があるもの
だよ……」平山の薀蓄話は時にためになることがあるが、こういった宴会の時にはあわない
のである。
 下戸な人は、最初に適当に料理をいただいて、いざ平山の酒薀蓄が始まると急に用事を思
い出したとか帰る時間だとか適当な理由をつけ花見会場をあとにする人が目立ってきている。
けど平山は一人で薀蓄を言っているときが至福の時であり、社員が中座しても特に気にしな
いのである。
 平山が納得する量の薀蓄を語り終えると夜桜の下は半分以下に減っていた。用意していた
酒や料理はほとんどなくなっていた。社長や重役も家が郊外にあるとかいう理由で中座しで
いたのである。
 けど平山はこの事態に別にへこたれていなかった。自分の話が面白くないのは承知だし、
自分の家の関係で自然とおぼえたことを言っているだけなので他人には興味がなくて当たり
前だと思うからである。
 いつもはこうなってしまうと自然解散してしまうのであるが常である。もちろん平山が主催の
飲み会はいつも同じパターンで、普段は仲間がみな帰ったあとに残りの料理を食べて自分で
清算するのである。
 しかし半分会社主催になっているので【夜桜会】も場所の予約限度の午後8時半で終了し
たのである。
 けれどその他の社員も平山の話に辟易しながらも夜桜の下、楽しい時間を過ごせたので
あった。
 酔いが醒め始めた平山は辺りを見回した。よく見ると和田建設の隣に陣取っていた花見客
(どこかの企業のグループ)は酒や食べ物を手にしながら参加者の一人が、自前のアコーデ
ィオンオルガンを伴奏に参加者全員で流行歌を歌っていてにぎやかだ。これは昭和39年現
在にしては珍しい光景だった。まだまだ歌を伴奏つきで全員で歌うこと自体少ない世代だっ
たのである。
(もう宴会だと誰しもが歌を歌う時代になったのだな……今度の飲み会からいっそのこと俺
も薀蓄なしでいってみようかな)と少し反省する平山であった。
 月日はあっという間に過ぎていった。この間にも春になると桜が咲きそして惜しみなく散っ
ていった……。
 15年後、平山は和田建設で営業課長になった。おかげさまで業績も好調である。もちろ
ん相変わらず酒は好きでよく一人で呑みにいく。15年前に自分が予想したとおり、宴会に
はカラオケが定番になった。平山もカラオケをすること自体は嫌いではなかったが、自ら進
んで歌うほどではないのである。ただ平山が思うのに、花見にカラオケは合わないと思っ
ている。
 最近では花見の名所といわれる公園などでも大型のカラオケ機械を導入しているところ
もあるという。こうなってしまうと夜桜の風情もカラオケの大音量でどこかに吹っ飛んでしま
う花という物はゆったりと食事でもしながら見るのが通なのである。
(昔の宴会のほうが良かったな……話もあり笑いもあり、参加者も酒を通してのふれあい
があったからな……)
と、新橋の居酒屋の片隅で酒を片手に一人つぶやく平山であった。
【完】
参考資料:日本文化を英語で説明する辞典 有斐閣
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