9、扇子 「落語家」
 江戸時代から続く日本の伝統芸能の落語。世界的にも珍しい話芸とされている。何しろ一
人の演者がたくさんの人を声色を変えて、ひとつのこっけいな物語を演じるのであるから。
 さらに舞台装置もなく、演者が使う小道具もわずかに扇子と手ぬぐいだけなのだから。今
ではTVの普及や他の娯楽に押されてきて昔ほどの人気はなくなったが、落語の好きな人
は老若男女問わずいるそうです。
 もちろん昭和30年代くらいはまだまだ落語は【娯楽の王様】として庶民の人気芸能のひと
つとして君臨していたのである。もちろん当時は寄席は都内を初め日本各地に沢山あり、TV
やラジオの演芸番組も多かったのである。

 昭和30年代のとある家庭。この家では親の威厳が強く、しつけが徹底していた。起きる時
間も寝る時間も決まっていて、TVも親が決めた番組しか見られなかった。今はどの部屋にも
TVがあるのだが、当時は一家に一台しかないのが普通だった。よってこの家では父親がTV
の「実権」を握っていたのだ。もちろん他の部屋にはTVがないので家族全員さほど居心地が
よくないこの居間に夜遅くまで集まっているのである。
 番組も父が好む番組(ニュース・演芸・囲碁将棋・時代劇・野球)しか見る事ができなかった。
それでも家族は不平を言ったりやたらと別のチャンネルに変える事はできなかったのである。
 父親は子供のためにならない番組は見せるものではないと考えていたからである。けど父
も人間であり、特に厳しいということではなかった。この家庭で視聴できる唯一の娯楽番組で
ある演芸番組は「昔の生きた教訓が勉強になる」ということですすんで見せていた。
 そのためここの子供も自然と落語や漫才に興味を持つようになった。
 この家の長男の明くん(12)は、そういった環境で育ったので、小さいときから落語は好きで
ある。TVの演芸番組はかかさず見ている(父も見ているから)実際の噺(はなし)ももちろんだ
が落語家のしぐさが一番好きだという。なにしろ扇子と手ぬぐいだけで色々なものに【変身】で
きるのだから。
 それだけ落語というのは聞く人の想像力を働かせる芸能なのである。もちろん明も父のお
古の扇子を使って「箸」にしたり「書物」にしたりして楽しんでいる。そういう風に落語家に親し
みが持つと必然的に本物の落語家に会いたくなるのが心情である。
 明は父に反対されることを覚悟で父に、
「お父さん、今度の日曜に本物の落語を聞きにいきたいです」と頼んだ。
 父は急に機嫌を良くして、
「そうかそうか、明も寄席に行きたくなったか。いいとも、今度の日曜にお父さんと一緒に都内
の寄席に行こう」との答え。父の口から出た意外な答えに明は有無を言わず喜んだ。
日曜日。明と父親は電車で新宿の寄席に行った。建物が本当に時代劇で見るような芝居小
屋といったようなつくりで、どことなく格調高かった。
 入り口で料金を払い建物の中に入った。高座(舞台)に向かってたくさんの座席があり、脇
に桟敷席(さじきせき)があった。明と父は落語家に一番近いところで見られる一番前の席を
選んだ。
 明たちが席に座ってしばらくすると高座からお囃子の音が聞こえ幕が開くと寄席興行が始ま
った。明の知っている噺もあり大いに笑った。
 隣で見ている父も大きな声で笑ってる。これは明が見る初めての姿だ。家では威厳を保って
いて恐い感じだったが今日は全く違っていた。
 せっかく本物の落語家に会っているのだし、父親も機嫌がよさそうだし、思い切って落語家に、
「おじさん、扇子を使うのがうまいね!」と褒めてあげた。静かだった会場が一気にざわめき始め
た。けれどそこは話のプロ。このくらいのことでは動揺しなかった。間髪をいれず落語家は、明の
いるほうに向かって、「ボク、これは何をしているところか分かる?」と聞いてきた。
明は「これしってる!箸でおそばを食べているところでしょ!」隣に居た父は冷や汗をかいてま
わりに向かって謝っている。けど顔は笑っていた。
 落語家も明とのやり取りが気に入ったらしく、さっきまで語っていた噺とは全く関係ない扇子の
使い方をした。
 今度は扇子を広げ両手で持つと「手紙読んでる!」と明は元気一杯答えた。落語家は明に
「あたり!」というと彼が使っていた扇子をプレゼントした。
 明は「おじさんありがとう!」と礼を言った。会場内は笑いとどこかほのぼのとした雰囲気に包
まれていた。
 最後に落語家は、
「今日はこんな小さな坊ちゃんが特別ゲストとして参加してくれました、この子はきっと落語が好
きな子でしょう。これからが楽しみです!」といい高座を後にした。
 明にとっては思いがけない出来事だった。本当の落語家と会話ができ、おまけに扇子までもら
った。
 父も今日のことは大目に見てくれている。むしろ他の客から「こんな落語な好きな父親なのだ
からきっといい教育をしているのだろう」という噂まで広がっていたからだ。
 二人は寄席から出ると、父は明に向かって、
「今日は楽しかったな。本当に落語はいいもんだろ。時間ができたらまた連れていってやるぞ、
でも今日みたいなことはするなよ!」と釘をさされた。
 明は大きな声で「うん!」と答えた。

 明はその後大学に進み、落研(おちけん=落語研究会)に入った。本物の落語家こそはなれ
なかったが、落語が好きな友人数人と老人施設などで素人寄席をたまに開いている。
 もちろん子供のときに落語家からもらった「宝物」の扇子を使って。
【完】
参考資料:新宿末廣亭 http://suehirotei.com/
       社団法人 落語協会 http://www.rakugo-kyokai.or.jp/
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