8、たそがれ 「帰りたくない夜」 
  (活字中毒サイト「novela」作品テーマ【宵闇】参加作品)
 人生は誰しもが順風満帆に進むわけではない。時には失敗もあり挫折もある。それが
当たり前であり全てがうまくいく人生なんか面白くない。

 昭和37年の冬。
 都内の中堅企業で働くベテラン営業マンの浅野さんが疲れ果てたような重い足取りで、
自分の家がある私鉄の駅に降り立った。
 彼が重い足取りなのは訳がある。彼は今日仕事で大きなミスをしでかしたのであった。
せっかくの大口の取引がまとまりそうな時に、酒席での接待時に彼の何気ない一言で
相手先の社長の機嫌を壊してしまい一方的に取引が破棄されたのであった。
 取引がまとまれば数百万円になるという大物の取引だっただけに、会社としては契約
をふいにしてしまったことが経営に大きな痛手になる事は否めない。
 会社も新規事業に乗り出す第一歩として、おおかた取引が成功したと半ば思っている
事だから、明日会社で【取引破棄】の報告など出来ない。さらに取引破棄の直接の原因
が自分のちょっとした不手際で相手方を怒らせた、となれば社長がどんな言葉を返してく
るか目に見えている。始末書の一枚程度では絶対に済まない筈だ。最低でも関連会社
への左遷、下手すれば解雇すらもありうる。
 いざ解雇との事態になれば、45歳と言う浅野の年齢では新たに雇ってくれる会社もほ
とんどないであろう。そうなると自分自身の人生はもちろん家族の生活でさえも危ぶま
れてしまう。せっかく30年ローンを組んで建てた家も給料を絶たれると返済できなくなり、
不動産業者に泣く泣く手放さざるを得ないし、息子の進学費用もままならない。かと言っ
て平静心で帰宅しても明日のことが気になってしまい、そう簡単に疲れは癒えない。むし
ろ動揺した姿を見て家族が心配をするかもしれない。
 当たり前であるが、今更あれこれ考えても過ぎてしまった現実は戻れないのだから仕方
がない。自分がしてしまった行動を素直に受け入れ、その後の運命も時の流れにゆだね
るしかない。厳しいけれどそれが人生であり運命でもある。
 こういう状況に陥ると、人は必ず(あのときに戻ってやり直したい)と思うが、それが出来
るのは映画やアニメの世界だけであり、実際には絶対に出来ないのが常識である。
 だからこそ人は誰しも現実では絶対に不可能である【時の逆戻し】や【人生のやり直し】
を心では望んでいるのである。
 昭和30年代の頃は、私鉄沿線の駅前と言えども、今と違って煌々と照らすネオンはも
ちろん無く、店灯りも今よりもかなり地味で、商店街や住宅街の外灯も少なかったので、
夕日が沈むとすぐに辺りが暗くなってしまう。特に昼の時間が短い冬の時期はあっという
間に町が闇に包まれてしまう。
 浅野が駅に着いたのが午後6時、丁度この時間が【たそがれ時】である。
 彼の自宅は駅から歩いて20分くらいの所にあるが、今日は家路がものすごく長い距離
にさえ感じる。まさしく真っ直ぐ家には帰りたくない心境であった。
 するとそのどこからか声が聞こえてきた。
「あなたは人生にお困りの様子ですね」
 振り返ると駅前の広場の一角に易者らしき人が立っていた。今の浅野の心情だとどうに
かして現状を維持したい、あまよくば現状から回復したいとの思いが強い。そういう時は口
に出さずとも表情や行動で第三者からでもある程度は判るのである。特に易者と言った何
かに困っている人の心を掴んで商売する職業の方々は道行く人の顔を見ただけで【客】か
どうかを敏感に感じ取る事が出来る。
 藁をもすがる思いで浅野さんは易者に近づいた。そして今日あった出来事を掻い摘んで
易者に説明した。易者は話を聞き終えると、
「状況は把握しました。けど自分が犯した失敗は取り返せない。この事は分かりますね?」
 浅野さんはやや不機嫌そうになったがそれが事実であるし理にかなっている。
「けど過ぎてしまった人生をやり直す事が出来なくはないのです!」
と易者は言い切った。
「え!そんな事が出来るのですか?ぜひ教えてください」
 すると易者は小声でこう言った。
「人生というものは簡単にはやり直せいのです。これは当たり前であり、もし安易に人生を
やり直せるのであればどんな人間でもすぐに堕落してしまいます。その様にならない為に、
あえて神様は『人生は一度だけでやり直せない』ようにしたのです。けど、実はやり直せる
のです。けどこの場合はそう誰でも簡単には出来ないようになっているのです。だってそ
うでしょう、人生が簡単にやり直せたらできるものなら誰もが一度はやってみたいと思い、
結局は人間が駄目になってしまいます」
 何だか話が哲学的になってきた。けど浅野は易者の話がまんざら嘘ではないと確信して
いるので黙って聞く事にした。
 たそがれの空がいっそう闇に包まれてきた。易者は表情を変えずに淡々と語った。
「人生をやり直す方法。これは唯一つだけある。『輪廻転生(りんねてんせい)』を活用す
るのである。簡単に言い換えれば『生まれ変わる』という事である」
(なるほど、確かに生まれ変われば人生はやり直せることが出来るな)浅野は思った。
 けどそれと同時に(どのようにして生まれ変わるのか)という疑問が浮かんだ。
「生まれ変わるには今ここで死ぬのが一番です!」
 浅野の表情が険しくなった。易者が「今からここで死ね!」と言うのであるのだから怒る
のも無理がない。けど人間は死ねば生き返るという事自体間違ってはいない。
 易者は浅野の表情には一切気にせず淡々と話を続けている。
「命は粗末にしてはいけません。そんな事ではなくもっと素晴らしい方法が実はあるので
す。ここから先の話は本当は誰にも言ってはいけないのですが、今日は貴方だけに特別
にお教えましょう……」
 と言い始めると一枚の紙を浅野に渡した。そこには【究極の輪廻転生術 人生はやり直
せる】と書かれていた。どうやら本の案内広告である。易者自身が書き下ろした本のよう
で、どう見ても美辞麗句と奇麗事ばかりが踊っている胡散臭い本である。さらに文末には
【価格5000円】と書かれている。何か別の魂胆があるのではないかと思い始めた。
 つまりこの本を買って読めば、あたかも簡単に人生がやり直せるという類である。しか
もこの本の内容自体どう見ても信憑性がない。しかも本としては異様なほど高価だ。
 もしかしたらこの本を買わされた人は有無を言わずビルの一室とかに連れ込まれ怪しげ
な儀式でも参加され彼に洗脳されてしまうのか。それとも本当に【輪廻転生】されてしまう
のか……。
(まあそんな怪しい事をする訳はないにしろ、きっとこの人は易者を装った詐欺師だな)と
判断すると浅野は逃げ出すようにその場から立ち去った。
 浅野は(どうも易者の話が胡散臭いと思っていたけど……やれやれ変な詐欺師に引っ
かかってしまい無駄な時間をすごしてしまったようだな。けど易者の話術に騙されないで
本当によかった)と思った。
(確かに人生はやり直せない。けどそこで人生を放棄したら負けである……)そう思うとや
はり運命は自分の力で切り抜けるしかないと感じた。
「あの易者も私のように何か過ちや失敗をした人をカモにして言葉巧みにいんちきな啓発
本を買わせるあくどい商売をして儲けているのだな……」とつぶやいた。
 現在では少なくなったが、昭和30年代には祭の縁日や駅前など人が集まる所で二束三
文の商品を高値で買わす香具師(やし)が居たものである。これもその発展形であろう。
 そう思うとなけなしの小遣いを無駄な出費に使わないで済んだという安堵感が強まった。
そう思うと明日のことも何とか突破できるのではないかと感じたのであった。

 翌日、【最悪の事態】も覚悟して出勤した浅野は、朝一番で社長に昨日の取引結果を報
告した。もちろん自分が弾みで出てしまった失態をあえて言わず結果のみを述べた。
 すると社長は、しばしの沈黙の後こう話した。
「……そうか、最後の最後で取引に失敗したか。……まあ仕方ない。ライバル業者の応酬
も結構あったらしいし、あの事業はおそらくうまくいかないだろうと私は予測していたんだ。
今回の失敗を受け、新規事業の取り組みの件は白紙に戻す事にします。今まで色々とご
苦労様でした」
 昨日浅野が考えていた事とは全く違った結果であった。物事を大きく考えすぎただけの
事であった。浅野は正直余計な心配して損をしたと感じた。
 その日の夜。浅野は昨日とは打って変わって軽い足取りで駅を降り立った。何しろ自分
が失敗したにも関らずお咎めを受けなかったからである。左遷や解雇の心配もなくなった。
 昨日と同じ様なたそがれ時、けど今日は上機嫌な浅野である。昨日易者に騙されて盗ら
れそうになった小遣いで久しぶりに馴染みの居酒屋に呑みに行くのだから。
【完】
TOPへ
掲示板・メールフォームへ
お題小説TOPへ
小説置き場へ