2、廃墟  「盆栽」
 日本は、第二次世界大戦に参戦したものの、ドイツやイタリアなどとどもに敗戦した国で
ある。その際たる被害が広島と長崎の原爆投下であった。
 しかし原爆が投下された広島・長崎をはじめ空襲の被害にあった東京など他の都市も、
終戦後焼け野原になった廃墟から国民が立ち上がり、目覚ましい復興を遂げ、全世界
を驚かしたのは世界に広く知られている。
 これも日本人の勤勉さと、戦争に負けて心を入れ替え、一からやり直そうという精神に
あったに違いない。また建設などが比較的しやすい日本式家屋も復興を早めた要因が
あるだろう。この考えは近年発生した阪神大震災後の復興にも通ずる部分がある。

 昭和21年1月。戦争の為東北に疎開していた山田さん一家が東京に戻ってきた。実際
には終戦直後から疎開先から戻る一家もあったのだが、山田さんの場合東北の親戚宅
が居心地がよかったのか東京に戻ってきたのは終戦後の翌年に遅れたのであった。
 山田さん一家は都心からやや離れた下町に家があった。小さいながらも一戸建てで、
狭いながらも盆栽がたくさんある庭があった。
 山田さんのご主人の武夫さんは前から盆栽が好きだったが、戦争が激しくなるととも
に、集団疎開のため、家を離れる際に自ら寵愛(ちょうあい)していた一鉢を除いて全て
家に置いたままにしてあった。
 不謹慎ながらも家のことより盆栽のことが第一と考える山田さんは久しぶりに自宅の
ある町に戻ってきた。
 駅を降りた途端、駅前に広がる景色は山田さんの想像を絶するものであった。
「……何もない……」
 昭和20年3月10日の東京大空襲でB29爆撃機344機による夜間焼夷弾(しょうい
だん)により東京の下町地域一体が一瞬にして焼け野原と化したのである。
 ポツダム宣言受諾後、約4ヶ月が経った今でも焼け野原に所々バラック住宅が建って
いるものの、瓦礫(がれき)がそのまま残っている区域もあり、まだまだ凄まじい空襲の
爪跡がくっきりと残っていた。
 山田さんが住み慣れた町も東京の下町地域で空襲の被害が一番甚大だった箇所の
一つであり、文字通り「廃墟」同然である。
 一家は駅前で呆然と立ち尽くした。けど「ひょっとしたら」という考えもあり、当時の記
憶を頼りに自宅のあった所へと行ってみた。
「……めちゃくちゃだ…………」
やはり、というか当然というかここも駅前と同じような光景であった。大きな瓦礫はそこ
そこ片付いているものの、見事に全くない。家も塀も家財道具も、もちろん盆栽も全く無
くなっていて、そこにあるのは細かい瓦礫と空虚に広がる土地だけである。
 山田さん一家も、町内の他の家と同様に全てを一瞬にして失ってしまったのである。
 勿論ここで路頭に迷うわけにも行かない。
「財産はなくなったが少なくとも家族の命だけは助かったのである」と思い、「また働いて
稼げばいいのだ」と心を入れ替えた。
 幸い山田さんが心を込めて育て、疎開先にまで持っていった最後の一鉢の盆栽が予想
以上の高価で売れたので、それを元手に東京の山の手地域に土地と家を買ってそこに
住む事にした。
  10年後。日本は終戦後の混乱期を見事に乗り切り、奇跡的に復興した。国民の生活
水準も戦前を遥かに越え、【もはや戦後ではない】の言葉が流行る時代になった。
 誰の目から見ても、10年ほど前に東京で大規模な空襲があったとは思わない位に復
興したのである。
 山田さん一家も戦後の混乱期の中で新しい仕事も見つかり、その仕事を一生懸命働
いた成果が実り、日々の生活がやっと落ち着いたという状態まで回復した。暮らしも戦
前と比べて格段に便利になった。
 ご主人の武夫さんは55歳になり、定年を迎え(作者注:当時は55歳で定年を迎えて
いた)、悠々自適な隠居生活を送り、一家の主な収入は息子の秀夫さんが稼いでいる。
 武夫さんは定年後自由な時間が持てるようになったので、前から好きだった盆栽に
再び凝り始めるようになった。
 けどそ武夫さんの盆栽の趣味が意外な事件に発展するとはその時は夢にも思ってい
なかったのである。

 武夫さんが再び盆栽をやるようになって3年後。
彼は「盆栽」というと、戦前自分の家にたくさんあった盆栽がついつい頭の中に思い浮
かぶ。勿論空襲で一鉢を除いて全部無くなったのは重々分かっている。けど人間という
ものは欲深い生き物なのか、疎開先にもっとたくさん持っていけばよかった……と、つい
つい後悔してしまうのである。もちろん自分が死んでしまっても盆栽はあの世に持って
いけないとは分かっていながら、たくさんの盆栽を子供のように可愛がっていた武夫さ
んにとっては、盆栽はかけがいのない宝物であった。
 本当は、盆栽は無くなったわけではなく廃墟になった町の瓦礫の下に粉々になってし
まったと分かっていても、心のどこかにはその引っ掛かりが落ちないのである。
 ある春の日曜日、武夫さんは家族に、
「ちょっと近所の園芸店に行ってくる」と言葉を残しふらっと外に出かけた。
 園芸店に立ち寄った帰り、武夫さんは帰る道を一本間違えたかのか何かのきっかけ
で帰り道が分からなくなってしまったのである。
 勿論本人には「ちゃんと家に戻っている」という認識は一応しているのである。
 一人で道を歩くこと3時間。武夫さんは住宅が整然と並んでいる住宅団地にたどり着
いた。そしてその中の一軒家に何の躊躇なく入っていった。勿論そこは赤の他人の家
であるのだが、武夫さんにはそのことが分からなくなっていたのである。今で言う軽い
認知症(いわゆる老人ボケ)の状態になっていたのである。
急に知らない老人が家に入ってきたのだからその家の家族が驚いたのは無理もない。
新築の家に住んでいる新井さんの主人が武夫さんに住所と名前を尋ねた。
 すると「東京都台東区東浅草 山田武夫」とはっきりとした口調で答えた。しかも武夫
さんが言った住所はこの家の住所と全く同じなのである。
 その家の主人があれこれ聞いても前住んでいた家のことしか返ってこなかった。
 困り果てた主人は武夫さんのズボンのポケットに何か入っているのを見つけた。する
と先ほど買ってきた園芸店の包み紙に包んだ花の種が入っていた。その包み紙にはそ
の店の住所が入っていた。
[東京都大田区蒲田……]
それを見るや否や新井さんの主人は隣の家へ行って蒲田の警察に電話をかけた。(当
時は各家庭に電話が引かれていなかった)
 なんと武夫さんは今住んでいる蒲田から浅草まで歩いて来たのである。勿論自宅から
数10キロ離れているので道路も知らない、それなのになぜか当時の郷愁とおぼろげな
記憶だけを頼りに前住んでいた家まで帰ってきたのである。
 数時間後、警察官と山田さん一家が武夫さんを連れに新井さんの家にやって来た。勿
論ここが以前住んでいた地だということは第一報を聞いたときから分かっていたが、まさ
か一人でここまで何も見ないでここに来たということ自体大変驚いた。
 また、焼け野原の廃墟を13年前実際に見ていたが、13年たってこんなにまで復興し
ていたのが驚きであった。
 山田さん一家と新井さん一家は武夫さんの執着心と記憶の正確さに感服した。そして
「こんな不思議な巡り合わせもあるのだ」ということを改めて知らされた感じであった。
 ひょんなことから打ち解けた家族は警官に礼を言った。警官が去った後新井さんの主
人は庭を山田さん一家に見せてあげた。
 すると松などの木が数本根を張っているのである。おそらく武夫さんが育てていた盆
栽が空襲で焼けても、何本かの木は他の盆栽の下敷きになって焼かれずにそのまま
生きながらえていて、そのまま根を張り育っていったのではないか、との事。
 それを見るなり武夫さんは感激した。「やはり生き残っていた……」涙を流しながら喜
んでいる。
 武夫さんを見て2つの家族は植物にもしたたかな生命力があるのだと改めて感じた。
 日が暮れ始めていた。山田さん一家はまた遊びに来る事を約束し新井さんと別れた。
 帰りの電車の中からも新しい住宅や町並みが建っているのが見えた。
「焼け野原からの東京の復興は目覚しいな。日本はこれからもっと発展するだろう」と
秀夫さんは言った。
 それからというもの武夫さんのボケはいくらか収まったような感じである。きっと彼の心
のどこかに引っかかっていた「盆栽」が取れて安心したのであろう。武夫さんにとっては
戦争で全て失ったはずの盆栽が一部でも元の家ですこやかに育っているのだから。
 もちろん盆栽がきっかけで親しくなった浅草の新井さんとの交流は今でも続いている。
 今日も新井さんのご主人から武夫さんへ手紙が届いた。
「拝啓。山田様にはお元気の趣、何よりお喜び申しあげます。庭の松の木も今日も暖か
い日を浴びてまっすぐ伸びております……」
【完】
参考資料:広辞苑第5版(岩波書店)
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