路面電車の経歴書  (「春祭り」参加作品)

 路面電車が今でも現役で運行している地域は、現在では全国19都市まで減ってしまった。
 かつては日本全国100箇所以上の町で路面電車が存在し、市民の大切な足として運行
されていたが自動車の増加によるモータリゼーションの変化や地下鉄の登場により路面電
車は時代遅れの存在になり昭和40年代の前半から次々と路線が廃止になった。
 現在路面電車が存続している地域は、いろいろな理由でバスなどの交通機関に変換でき
なかった地域や自動車との共存共栄が成功した地域であり現在では貴重であるといえる。
 昭和30年代は自動車の台数は今よりも少なく、まだまだ庶民の交通機関として重要な位
置を占めていた。しかし昭和30年代も後半になるとご多分に漏れず路面電車も時代の波
に呑まれはじめる頃でもあった。
 交通がだんだんと激しくなるにつれ都市部の路面電車の路線が存続の危機に追い込ま
れるのである。現に東京都内を走る都電も全盛期には都内各地を網の目のように路面電
車が運行されていた。系統(路線)も41もを数え、まさに都内を隈なく走っていたのである
が現在では都電荒川線の1路線を除いて廃止になっている。
 しかし路線は無くなっても車両は廃車になる事はあまりなく、たいていは別の地域の路
線の車両として売却や配置換えされ、時には車体の色を塗り替えられ、時には新たな部
品を取り付けられて第二の人生(車生?)を送るのである。
 現在でも路面電車が現役で走っている地域で運行されている古い型の車両の多くは、
かつては別の地域で使われていた車両だったりする。
 そう、路面電車の車両も人間と同じような出会いと別れのドラマが存在するのである。
 昭和40年代前半になると路面電車に代わり自動車やバスが市民の交通の主役となっ
ていったのである。東京や大阪と言った大都市も含め各地で路面電車(の路線)が次々
と姿を消していった。そして路線の廃止後、各地で運行されていた車両は程度の良いも
のを中心に当時路面電車が残っていた都市や、現在でも存続している函館・広島・松山
・長崎といった都市で新生活を送るのである。

 この小説の主人公(主車公?)の車両【広島電鉄750系】広島市の路面電車として今で
も現役で働いている古参の一つである。といっても昔からずっと広島で運行していたので
はない。今は全廃されたがかつては大阪市に路面電車が走っていて、そこで長年活躍し
た後、路線の廃止とともに広島電鉄の車両として再出発をしたのであった。
 ある春の日、誰も居なくなった車庫で750系車両はふと昔の事を思い出した……。

 私が生まれたのは昭和15年。その時に初めて自分が【路面電車】だという事に目覚め
た。そもそも私達は鉄などが素材なので人間の使用物として形が確定されるまでは正直
言って何になるかは分からない。けど私が電車の車両と言う形になったと言う事はある意
味幸せだったのかもしれない。
 私が路面電車として正常かつ安全に使用される試練である【車両試験】を合格し、晴れ
て【1601系 1641号車】と言う名前を授かった。そして私の大阪での仕事が始まったの
であった。
 当時の大阪は現在のようにアスファルトで固められた道路も少なかったので、かなりの
どかであった。道の片隅にはたんぽぽが自然群生し、菜の花も咲いていたので沿線は花
に囲まれているところもあった。
 私は同期の仲間のビルや橋のように一箇所にじっとしている物体ではなく、時間によって
色々な所を移動できる。同期には悪いと思いながら自分だけは大阪のあちこちの風景を
眺めることが出来たのは幸せだった。
 極端に暑い夏や、雪が降る冬よりも私は春が一番好きであった。また沿線に桜の木があ
ると早く咲いてくれないかと心待ちになった。蝶は私の程よい温度と硬さが気に入ったのか
私のところに近づくと屋根の上でしばしの時間羽を休んでくれる。またある時はつばめが地
面すれすれに飛んできた所に私が危うく跳ね飛ばそうとしたこともあった。

 しかし平和な時代は続かなかった。戦時体制の最中であった昭和20年3月13日と6月
1、7、15日に米軍による空襲によって大阪の町が焼け野原と化した。私は運良く助かった
が、多くの同僚や先輩を空襲で失った。焼夷弾によって仲間達が無残にも焼焦げてしまっ
た姿は今思い出しても胸が詰まる思いである。
 私を含め生き残ったのは全体の半数にあたる475両であった。本当に運が良かった。
 終戦の後しばらくは私も体が動けるときは絶えず働いたものであった。現在では考えられ
ないほどぎゅうぎゅう詰めに乗客を乗せ、中には私の屋根にまでよじ登るワイルドな輩もい
た。それでも私はけなげに働いた。定員オーバーのすし詰め運転はもちろん苦しかったので
あるが、頑張ればまた春が来ると言う希望があったからこそ働き通せたのだなと思う。

 それからしばらく経ち世の中が安定してくると私の後輩も次々と登場し、路面電車も平和
な時代を迎えるのである。戦後10年以上経った昭和30年代が私の一番幸せなときだっ
た。舗装し始めた道路の中心を走ることが出来たし、乗客もたくさん乗るようになった。
 ただ都市化によってたんぽぽや菜の花などが姿を消し春の花々が咲き乱れる空き地が
消え、ビルなどに変えていったのであった。
 その辺りから私はいやな予感がしてきた。
(いつか私の仕事がなくなってしまう!)
 予感は的中した。昭和30年代の後半から車の普及によって路面電車の運行が困難に
なり路面電車が邪魔者扱いされるようになった。現に自動車が線路にまで溢れてしまい路
面電車の運転すら出来ない時期もあった。
 それから数年後の昭和39年、ついに私が大阪の町から追放される事になってしまった。
 私の仕事場(路面電車の路線)は廃止され、路面電車の車庫という場所にしばらくの間
【軟禁】されてしまったのであった。路面電車の廃止とともに余剰(よじょう)になった車両は
次々と廃車になっていくという噂が私の元にも流れた。実際多くの友人が人間の手によっ
て【殺害】されていった。この時の先輩の無残な姿は今でも脳裏に焼き付いている。
 廃車されたものは体に不調を持ったものばかりであり、いわばレース後予後不良になっ
た競走馬と同じ処置である。人間の思惑とはいえ致し方ないかもしれない。
 私は幸い体が丈夫であった為、最悪の処分は免れたのである。これも人間の勝手な判
断によるものであるが路線の廃止とともに現役で働ける一部の車両は他地域への【転勤】
を強制させられたのである。
 私は広島に【転勤】を命じられた。そして人間が作ったトラックと言う乗り物に乗せられは
るばる未知の地である広島へと引越になった。
 そして転勤と共に私の名前が【750系 772号車】と改名され一部の部品交換を行われ
新たに生まれ変わったのである。

 広島と言う町は私にとっては天国のような地であった。何しろ自動車と路面電車が完全
に分離されているのでかつての地(大阪)のように自動車に邪魔されることなく心置きなく
仕事に励む事が出来るのである。その功績があって昭和30年代から一度も路線が廃止
されないで今に至っている。現に広島市の路面電車は今では日本一の路線と規模を誇っ
ている。さらに広島では各地から廃止された都市で活躍していた車両を活用している。
 私も広島に来てすぐにたくさんの友人が出来た。神戸から来たもの、福岡から来たもの、
京都から来たもの、と各都市から流れてきた同業の仲間や私のような長いキャリアを持つ
ものとして広島市という安住の地で余生を送れるということはまさに幸せそのものである。

 平成19年のとある春の日、一日の仕事を終え、私が車庫でくつろいでいると、
「広島の町は原爆が落とされたものの市民の努力によってこんなに大きくなったんじゃよ」と
自ら被爆経験を持った先輩車両が私にこう言った。
 すると脇から斬新な姿をした3両編成イケメン新型車両が割り込んできた。
「昔は戦争があって大変だったんだ。けど今はこんなに綺麗で立派な町になって、しかも僕
達も市民から愛されてくれて嬉しいよ」
「そうだね。これからの時代平和が一番だね」と私は言った。
 私は平成の時代になっても現役で広島の町を走り続けている。斬新なデザインの新型車
両と一緒に仕事しているだけでも気分だけは若返ったみたいである。これからも私の寿命
が尽きるまで路面電車の町・広島でずっと走り続けたいと思っている。

 最近は環境にやさしい公共交通機関と言う事で路面電車が再び脚光を浴び始めている。
実際に富山市のように鉄道から路面電車に転換した路線も出てきた。
 環境の世紀とも言われる21世紀、再び路面電車がかつてのように庶民の足として活躍
する事を心から願うばかりである。

【完】
※作品中の「被爆経験を持つ車両」は現存して、広島市内で運行されております。

参考資料
日本の路面電車T〜V(JTB)
路面電車カタログ(山と渓谷社)
都電が走った昭和の東京(生活情報センター)

参考サイト
乗ってみんさい!(広島路面電車&広島の乗り物)
http://www.geocities.jp/ashurah521/notteminsai.html
大阪市電保存館 http://ss4.inet-osaka.or.jp/~tochio/osakakotsu/hozonkan.html
富山ライトレール梶@http://www.t-lr.co.jp/