氷屋  (桐原祥雲さんのサイト「言風 〜pneuma〜」に寄贈)

 昭和30年代。
 家庭電化製品はまだまだ高嶺の花の状態であった。
 比較的構造が単純な炊飯器などは普及し始めていたが、、テレビや洗濯機や冷蔵庫といった【三種の神器】は製品として存在していたものの、まだまだ高価であった。
 これらが各家庭に進出するのは技術革新が進んだ昭和40年代頃である。
 冷蔵庫は今では各家庭にあるのが当たり前だが、昔は冷蔵庫がなくても生活する事が出来た。なぜなら食物は毎日商店街に行ってその日に使う分の食品を店で買えば済むことであるし、そもそも毎日買い物に行くこと自体が主婦の役目でもあったからだ。
 食品を冷やす必要があれば、水を張った桶や井戸の中に入れて直接冷やす方法や、食物にぬれ雑巾をかけ気化熱を使って冷却する方式が行われていた。昔から続く生活の知恵の一種であり、もちろん氷も食品の冷却用や熱冷まし用として大いに利用されていた。
 昭和30年代の初め頃には電気店で電気冷蔵庫が販売されてはいたがかなり高価であったので、庶民は旧来からあった電気を使わない冷蔵庫を使っていた。
 【電気を使わない冷蔵庫】と言うと現代の若い人には不思議に思うかもしれないが、2扉式の小さい冷蔵庫をイメージした形で、上段に大きな氷の塊を、下段に食べ物を入れ、下りてきた氷の冷気によって食物を冷やすのである。
 もちろん氷は消耗品であるので、毎日氷屋が各家庭に配達をしていた。
 そのためどの町にも氷屋はあった。もちろん商店街の真ん中というわけには行かず、住宅地から離れた所に製氷所を兼ねた氷室(ひむろ)を設けそこから配達するのが一般的であった。ただ商店街の一角に集金や注文を承る出張所がある地域もあった。
 氷は溶けてしまったら最後なので、朝早い時間に配達をする必要がある。

 昭和34年、静岡県のとある町にある氷屋。
 この店の主人である大川さんは、朝一番で製氷した氷を容器に入れ、自転車の荷台に手際よく積み込み、慣れた運転で家々に配達するのである。
 氷の塊は結構な重量があるものの、さも軽々しく冷蔵庫用の氷を専用の鋏で掴み、家に配達をしていった。
 電気冷蔵庫が普及する前までは、氷はガスや電気と同じように必要不可欠な存在であり、繁盛していた。
 特にこの店では「素人がやると怪我をする」という大川さんの考えで従業員を雇わず全て一人で行っていたため、余計な人件費もかからいのでかなり儲かっている。元気で丈夫だけが取り柄であったため成し得た事なのかもしれない。

 しかし高度成長の波は、容赦なく地方都市の氷屋にも襲ったのである。
 昭和30年代の後半ともなると氷屋は「生活になくてはならない」という存在がだんだん崩れかけてきたのである。
 技術の進歩により電気式の冷蔵庫が安く買えるようになると、昭和38年には普及率が50%を越えるまでになった。その頃になると庶民の生活もだんだんよくなってきたのである。
何しろ電気冷蔵庫は食品を長い期間保管することが出来、コンセントさえ差し込んでいればこれといったメンテナンスが不要なので主婦にとっては大変魅力的である。しかも自分の家で氷が作れるようになったのも大きな進歩であったと言える。
 当たり前だが電気冷蔵庫を購入すると旧式の冷蔵庫はお役目御免になる。したがって大川さんの店でも昭和30年代後半からお得意様がだんだん減ってきたのである。
 少なくなっていく配達先の集金をする際にも、「今度新しく電気冷蔵庫を買ったから配達は今月まででお願いします」と言われる事も増えてきたのである。
 そして街角のごみ収集所に無残に捨てられている旧式の冷蔵庫の姿を見る度に大川さんは「これも時代の流れだ……」と肩を落とし項垂れてしまった。
時代の流れに勝てずこの町の氷屋も昭和30年代の末、ついに廃業に追い込まれてしまった。

 冷蔵庫用の氷としての役割を終えた氷屋が相次いで廃業する中、、電気冷蔵庫では作れない大きな氷やロックアイス用の氷を製造販売することによって存命をした店もあるという。
 高度経済成長のおかげで電気冷蔵庫も昭和45年にはついに普及率90%以上までになった。ほとんど時同じくしてスーパーマーケットの誕生と冷凍食品の普及が進み、冷蔵庫や冷凍庫による食品の長期保存出来たおかげで、毎日食品を買う必要性がなくなり、商店街が衰退し始めたのもその頃である。
これが良い現象か悪い現象かはわからない。けど町に人情がなくなってきたのは事実である。

 氷屋に対するイメージも今では生活必需品というポジションから、カキ氷といった季節営業的役割に変わっていった感じである。けど氷屋のどこか涼しげな風情は今でも変わらない。
主役から退いてもどこか味のある商売とも言える。

【完】
参考資料:昭和の時代(小学館)
     探ってみよう暮らしのキオク(愛知県師勝町教育委員会・編)